若年性認知症の母が、私の使命をくれた。フリーアナウンサー岩佐まりさん
取材/猪俣千恵 撮影/石渡伸治
フリーアナウンサーの岩佐まりさん(36)は2002年、舞台女優を目指して18歳で上京しました。それからまもなく、大阪の54歳の母が体調不良と物忘れを訴え、06年、若年性アルツハイマーと診断されます。まりさんの関東と関西を往復しながらの介護生活が始まりました。13年、母を神奈川の自宅に引き取り、同居介護に移ってから今年で7年になります。自らも介護資格をとったまりさんは、講演やブログを通して介護に悩む家族を励まし続けています。
岩佐まり(いわさ・まり)
1983年大阪府出身。フリーアナウンサー。58歳でMCI、60歳で若年性アルツハイマー型認知症と診断された母を引き取り、2013年からひとりで介護している。関東と関西を往復しながら介護をしていた2009年に始めたブログ「若年性アルツハイマーの母と生きる」は、介護に悩む人たちの共感を呼び、月間総アクセス数300万PVを超える人気ブログになる。著書に『若年性アルツハイマーの母と生きる』、共著に『私と介護』。
――介護と仕事の両立のため、フリーアナウンサーの道を選んだそうですね。今後のご自身のキャリアについてはどう考えていますか。
認知症を世の中に伝えるために私は存在しているって、そんな使命のようなものを感じます。舞台で人前に立つ度胸をつけ、アナウンサーで話し方を学び、それが認知症をテーマにした私の講演会につながっています。完璧な流れなんです(笑)。母が原因でやりたいことを諦めたという気持ちはないし、やるべきことは与えられている気がします。それはきっと介護福祉の領域なんですね。最初から私の道は決まっていたように思います。
――仕事をしながらシングルで介護をしています。「しんどい」「やめたい」と思ったことはないですか。
そう思ったことは一度もないです。介護って人の根本的な部分、偽りのない姿と向き合うようなところがあるんです。認知症になると本心で素直な気持ちで向かってきます。母のそういう姿を見て、人間としてあるべき姿を学ばされている気もします。介護はやればやるほど楽しいと思えることがあって、その部分は伝えていきたい。母が歩けなくなり車椅子になった3年前、引っ越してまで在宅介護を続けるべきか、施設に入居させるべきか、迷いました。その時、ケアマネジャーがバリアフリーのマンションのチラシをくれたのです。もしあの時、介護施設のチラシを渡されていたら在宅介護を諦めていたかもしれません。私の思いを理解して応援してくれていると感じて、この方がケアマネジャーならまだ在宅で続けられる気がしました。
――介護の様子や自身の気持ちをつづったブログは、思わず笑ってしまう明るい内容も多いです。若年性認知症患者の家族は「隠しておきたい」という方も多いと聞きます。
介護ブログを始めたのは大阪に通って介護をしていた2009年です。ブログに母の写真を載せるのは、私のエゴという意見もありました。でも、隠さなければいけない存在という考えに違和感がありました。母はとてもいい笑顔をして、普通に生きているんです。「認知症は怖い」「話しかけづらい」という意識を少しは変えられたかもしれません。在宅介護をしていると仕事を失ったり、友人が離れてしまったりすることがあります。だったらその仕事も友達もいらないって思う。母の愛情で仕事も人間関係も守ってもらっていると感じています。
――お母様を引き取って始めた同居介護も7年目になりました。
大阪で父と暮らしていた母を引き取ったのは、「見当識障害」で昼夜が分からなくなり、夜中に散歩に出るようになってしまったり、押し入れやベランダをトイレだと思ってしまったりして父に限界が来たためです。今は同居を始めたころに比べずいぶん様子が変わり、ひどかった暴言や暴れはなくなりました。しかし、要介護5になり、私の名前を呼んではくれませんし、車椅子になり、言葉も発せず、食事も寝返りも自分ではできません。それでも母の優しさや、「うれしい」「悲しい」といった感情は残っています。認知症でも母の愛は消せないと感じるんです。ちょっと目を離すと命の危険を感じるような状態ですが、一日一日を大切に過ごしています。
――15年から17年にかけて、介護職員初任者研修をはじめ全身性ガイドヘルパー、認知症介助士、認知症ライフパートナー2級などの資格をとられています。
ケアマネジャーをはじめデイサービスでお世話になる介護福祉士の方の仕事に触れ、「介護を続けるためには資格があったほうがいい」と思いました。初め、「不穏」という認知症特有の症状を知らず、母を怒らせてしまうことが多かったのですが、職員の方は母を笑わせてくれて、接し方がまったく違いました。私もこういう介護ができないとすぐ限界が来ると感じました。例えば誤嚥(ごえん)性肺炎はとてもこわいのですが、食事中の正しい姿勢(ポジショニング)や足を床につけることの大切さ、口腔ケアの重要性を知りました。学ばなければ今でもベッドで食事をさせていたかもしれません。自尊心を傷つけない声がけや適切なケアができるようになって母の笑顔が増えました。
――社会福祉士の資格取得も目指してらっしゃると伺いました。
在宅介護を応援してくれたケアマネジャーが社会福祉士の資格も持っていて、とても助けられました。専門職というと上の立場にいて、家族の私たちは教えてもらうみたいなイメージがありますが、このケアマネジャーさんは寄り添いながら助言してくれたのです。例えば「家族会に入りなさい」と上から言うのではなく、「母とどこか出かけられるところないかなあ」という何げない会話から「家族会っていうのがあるんだよ。電話番号を教えるね」っていうような言い方です。家族が成長できるように支える。自分で解決できるようにアドバイスしてくれる人が介護には必要なんです。だから私もそんな人になりたい。それで社会福祉士になりたいという気持ちが芽生えました。
――介護福祉の仕事現場は人手不足と言われます。
どのような方に出会うかで介護家族の運命は変わります。私が仕事を続けられるのも、困ったときに相談できるのも、母の命を救ってくれたのもプロの人たちです。母はこれまで3回徘徊し、警察に捜索願も出しましたが、見つけてくれたのは3回ともデイサービスの管理者の方でした。経験と勘と技術でしょうか。私はまだまだかないません。今は、泊まりの仕事にも対応できて看護師もいる「看護小規模多機能型居宅介護施設」を利用しています。症状が重くなるほど、医師や看護師、柔道整体師、理学療法士など専門職の方と触れ合う機会が増え、支えてもらっています。
介護現場で働き始めた資格のない方もいると思います。入ってきた人が勉強して育っていけばうれしいことです。あるデイサービスでは、1年ですべての職員が入れ代わったこともありました。介護ってとても奥深くて勉強しないとついていけないし、勉強すると見えてくることがあります。学んだ上で楽しくないなら辞めればいいけれど、その前段階で分かった気になってほしくない。「ほかに仕事がないから」とか、「介護なら誰でもできる」とかの感覚で始める人もいるかもしれません。人を幸せにできるすごい仕事をしているのだから、責任もプライドももってほしい。研修や勉強会など向上心を持てるよう教育したり、周りが包みこんで育てたりして改善していくことも考えた方がいいと思います。
――認知症の講演会や電話相談もされています。
ブログを通じた電話相談を始めたのは2年前です。9割は私と同じ立場の女性です。相談というより、悩んでいるモヤモヤを吐き出させてあげたくて始めました。具体的に困っていることは市区町村の役場や専門家に聞けばいいのですが、そうでない日常の話などを聞いています。6時間続ける日もありますが、1分たりとも途切れなく電話がかかってくる状態です。講演会では「認知症ってなんかこわい」って思ってやって来た人が、安心して笑って帰ってくれます。認知症は、なった時にもっと気軽に考えていいと思うし、専門職がいっぱいいるんだってことも知ってほしい。
「母が元気だったらなあ」と思う気持ちは今もあります。何度泣いたかわかりませんし、傷つきもしました。ただ、介護って、生きていれば当たり前のこと。いつか順番がくるので、誰もが向き合っていくものだと思ってほしいです。育児と一緒で、自分を犠牲にするのではなく、仕事を手放さず、気晴らしを見つけ、明るく過ごす。そんな社会に少しずつなればいいですね。
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