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編集長インタビュー

大将でも、萩本さんでもなかった学生時代 欽ちゃんの「老人」はダメよ1

坂上二郎さんと結成した「コント55号」で一世を風靡し、78歳になる今日までお茶の間に笑いを届けている萩本欽一さん。「認知症対策」と入学動機を語って話題になった大学生活のこと、そして欽ちゃん流「人生100年時代の歩き方」などについて、なかまぁるの冨岡史穂編集長がうかがいました。

萩本欽一さんと冨岡史穂編集長

欽ちゃんに戻れて幸せだった

冨岡史穂(以下、冨岡) 今日はお会いできるのを楽しみにしていました。“欽ちゃん”とお呼びしてもいいですか?

萩本欽一(以下、萩本) どうぞどうぞ! 僕は今年の5月まで大学(駒澤大学仏教学部)へ通っていた間、何が一番幸せだったって、生徒も先生も“欽ちゃん”って呼んでくれたことなんです。ああ、やっと欽ちゃんに戻れたんだなあって。業界では“大将”、それ以外じゃ“萩本さん”だったから。

ご存じのとおり、大学へは認知症対策で。僕もボチボチそういう年齢だなと思ってね。以前から、どこかのタイミングで大学に行きたいとは思っていたんです。でも、ただ卒業証書をもらいに行くんじゃ普通っぽいなと。で、70歳を過ぎた時に「認知症対策として大学行くんだったら、いかにも勉強しに行く感じじゃなくていいんじゃないか?」とひらめいた。

ところが入学する時、予備校の先生を呼んで勉強したんだけど、脳がね、もう疲れたんで覚える気力がないって、全く覚えようとしないの(笑)。せっかく覚えても3日で忘れちゃう。特に英語なんて今さら持ってこられても困るでしょ? 脳がはじくんですよ。

そんなもんだから付き合い方を変えて、英語を笑いにしようってんで全部日本語読みの漢字とひらがなにしてみたのね。そしたらスーッと頭に入るようになって。

萩本欽一さんと冨岡史穂編集長

冨岡 ご自身で編み出された、70代ならではの勉強法ということですね。

萩本 そう。大学に入ってしばらくして、脳の先生に「ちょっとMRIで脳を見せてくれ」って言われたんです。そしたら40代の頭をしてるって。隙間がなくてびっしりだよって。それで2年間大学に行って、また違う先生に頼まれて検査を受けたの。そうしたら脳の記憶するところだけ30代のレベルになってるって。10年若くなってた(笑)。

成績結果じゃなく診察結果

冨岡 テストは全部90点以上だったとお聞きしました。健康診断はお受けにならないけれども、テストの結果がその診断結果であると。

萩本 90点以上取れるなら、認知症ではないっていうことで、僕の場合は成績結果じゃなく診察結果(笑)。やっぱりボーッと先生の話を聞いてるだけじゃダメで、試験を受けることが脳への刺激になるんでしょうね。

僕の経験から、人は一度に3つのことをやろうとするとパニックになる。大学ではドイツ語の授業があったんだけど、読むこと、つまり発音ってのがあるの。しかも試験になったらスペルと意味も書けっていう。大学がそんな無謀なこと言ったらダメだって。3つ同時は無理なんだから。

試験で必要なのはスペルと意味だけですからね。僕は「読むことは一切やりません。いつか必要になったら通訳を雇って金で済ませます」って先生に言ったの。先生は「読むのも勉強のうちだから」って困った顔してましたけど(笑)。

冨岡 試験の結果はいかがでした?

萩本 たしか90何点だったかな。2問くらい間違えちゃって100点は取れなかった。でも十分ですよ、40点以上なら単位がもらえるんだから。

ただ、僕が90点以上取ったもんだから、40点取れたらいいやって言ってた同級生たちが焦ってね。「このおっさんに負けたのか!」って必死に勉強するようになって、軒並み成績が上がっちゃった。あれには驚いた。

いい母ちゃんにぶち当たった

冨岡 自発的に。若い人が欽ちゃんに刺激を受けたんですね。

萩本 人間、自分で追い立てないと結果なんて出せないんですよ。私は小学校の時は小さく学び、中学では中くらいに学び、高校は適当に学び(笑)。あと大きく学ぶだけやってないんだな、と思って大学に行ったんですけどね。考えてみたら、うちの母親は偉かったですよ。僕がどんな成績の通信簿を持って帰っても、常に同じ対応をするんだから。

彼女はパッと通信簿を開けたら、まず「わ~っ!」って言うの。すごくほがらかな声で。「わ~っ!」って言いながら良いところを探して褒める。でも、小学校の時は母親のすごさに気づかなかったんですね、当時は5が多かったから。で、中学になって真ん中くらいの成績になったら「わ~っ、きれいに真ん中に揃って」って褒めてくれて。

で、高校生になって250人中210番になった時、さてどう言うかなあと思っていたら、いつも通り「わ~っ」って始まったんだけど、途中から声のトーンが「わー、…あああ?」って下がっていってさ(笑)。慌てて「わ~」って、また声の調子を持ち上げて良いところを探してるの。で、最後に「すごいね、後ろに40人もいるね」って。

これでさ、ちょっと母ちゃんに惚れたの。「俺はいい母ちゃんにぶち当たった」って。

萩本欽一さん

成功を招く「恩返し」の気持ち

冨岡 なんて素敵なお母様なんでしょう。

萩本 でしょう? さすがにそこからはものすごく勉強しましたね、恩返ししなくちゃと思って。そしたら成績が上から20番めにぶち上がった。

通信簿を持ち帰ったら、母親はそ~っと開いてすき間から見るわけ、恐る恐る。で、次の瞬間「あ――っ!」って絶叫してパンって閉じて。拝むようにしながら「母ちゃん嬉しい」って言ったきり、後は何も言わなかった。

その時、学びましたね。相手に対して怒りたいと思った時は怒らない。怒っても意味がないって。

冨岡 いいお話。高校生で気づいた欽ちゃんも素敵です。

萩本 でも、それは大人になっても同じなの。「あの人に世話になったから、あの人のためになんとかしたいな」という気持ちでやった仕事は100%成功する。「母ちゃん喜ばしてやろう」とかね。逆に「よし、これで一儲けするぞ!」では成功しない、絶対。

萩本欽一さんインタビュー(2)に続きます

萩本欽一(はぎもと・きんいち)
1941年、東京都生まれ。コメディアン、タレント、司会者、ラジオパーソナリティー、演出家。66年にコント55号を結成。80年代には人気番組を連発して「視聴率100%男」と呼ばれた。テレビだけでなく舞台、映画など多方面においても人気を博し、2005年には野球チーム「茨城ゴールデンゴールズ」を立ち上げ、監督に就任。2015年に「認知症対策として大学へ行く」と、駒沢大学仏教学部に入学し話題に。2017年から、台本無し!リハーサル無し!の「欽ちゃんのアドリブで笑(ショー)」(NHK-BSプレミアム)を開始。著書に「欽ちゃんの、ボクはボケない大学生。 73歳からの挑戦」(文藝春秋)「運が開ける欽言録」(徳間書店)など。
冨岡史穂(とみおか・しほ)
なかまぁる編集長。1974年生まれ。99年朝日新聞社入社。宇都宮、長野での記者「修行」を経て、04年から主に基礎科学、医療分野を取材。朝刊連載「患者を生きる」などを担当した。気がつけばヒマラヤ山脈、なぜか炎天の離島と、体力系の取材経験もわりと多い。

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