痴呆、絶望、人生の終わりから、「認知症新時代」へ 平成と認知症1
取材/生井久美子
9月21日は、令和になって初めての世界アルツハイマーデー。朝日新聞で医療や介護・福祉の現場取材を長く続け、認知症の当事者の思いや発信する姿と、彼らを取り巻く環境の変化を追った「ルポ 希望の人びと」(朝日新聞出版)を書いた生井久美子記者の特別寄稿です。
平成から令和へ。
日ごろ、元号を意識することはほとんどないけれど、ふり返れば平成の30年間に「認知症」をめぐる状況は確かに、大きく変わりました。ケアの対象から主人公へ。そして「なかまぁる」のようなウェブメディアまで誕生するなんて。1994年(平成6年)に取材を始めた私には、夢のような変化です。
実は1994年は、「国際アルツハイマー病協会」(ADI)と世界保健機関(WHO)が共同で、「世界アルツハイマーデー」を9月21日と定めた年。ロナルド・レーガン元アメリカ大統領が自身のアルツハイマー病を公表して世界の注目を集めた年でもありました。
有吉佐和子の衝撃の小説「恍惚の人」がベストセラーになったのは1972年(昭和47年)。以来、認知症は、主に家族や医療・介護をする側の視点で捉えられてきました。つい10年ほど前までは認知症ではなく「痴呆」と呼ばれ、「何もわからなくなる」「なったら人生の終わりだ」「暴力、徘徊で家族が壊れる」……、こんな風に怖れられてきました。
それが近年、認知症と診断された本人が、当事者として、公の場で語り始め、2014年(平成26年)10月には日本で初めて、認知症の本人たちによる当事者団体「日本認知症ワーキンググループ(当時)」厚労大臣に会って政策を提言。いま社会や地域、医療・ケアの現場を大きく変えようとしています。
「ケアの対象」から人生の主人公へ。「恍惚の人」から「希望の人びとへ」。本人同士が出会い、つながる。「私」を主語に絶望の体験から希望も語りあって発信してゆく。平成は、当事者発信の力を信じる時代の幕開けでもありました。
始まりは25年前、雪の「痴呆病棟」
私が介護の現場の取材を始めたのは25年前。認知症が「痴呆」と呼ばれていた時代です。
1994年(平成6年)2月、雪深い秋田の精神科病院の「痴呆病棟」。介護の現場でお年寄りのもっとも近くにいる「付き添いさん」(※筆者注)の手伝いをさせてもらい、病室の床にいっしょに寝泊まりしながらの取材でした。24時間連日ぶっ通しの仕事で、枕元にはシビンが並び、ゴキブリが這う。いのちにかかわる深い仕事をする人たちがこんな待遇しかうけていませんでした。
「地獄は死ぬ前にもあるのねえ、患者も私たちも」
こう嘆く付き添いさんの低い声がいまも耳に残ります。病棟では、「転ぶと危ない」という理由でベッドや車いすに縛られているお年寄りが何人もいました。初めてみた惨状に立ち尽くし、吠えるように泣いた夜もあります。
でも、今も私を支えてくれる「2人」との出会いもありました。
付き添いの松本みよ子さんは、重度の痴呆と診断され、「動き回ると危ないから」と縛られることもある二郎さんの担当になった。縛らずに、あとを着いて歩こうと決めた松本さんは、家族から二郎さんの人生の道のりをきき、彼が農家の生まれで、コメ作りをしていたことを知る。いつも手を大きく動かしながら病棟を歩き回るのは、田植えのときに、苗をまく動きなんだと気づいた!さらに毎日、何度も笑顔で話しかけながらいっしょに歩くと、2カ月後、二郎さんの表情が穏やかになり、4カ月後、うなるだけだった彼に言葉が戻り、ある朝、「世話に、なるなぁ」といった。
行動には意味がある。
本人の視点に立って接すれば、「絶望的だ」と専門医に見放された人も変わる。その可能性がある。
この出会いがあったからこそ、人間や介護の現場、認知症に絶望せず、取材を続けてこられたと感謝しています。
ただ新聞では、その惨状や過酷さを書くことがどうしても多くなってしまいました。報道が「認知症は大変だ」「人生の終わりだ」という誤解や偏見を助長してしまったのではないか。悔いと痛みが胸の底にずっとあり、今も消えることはありません。
当時でも、自分の思いを話してくれる認知症のご本人はいました。
「ねえちゃん、このひもほどいて」
東京の老人病棟で車いすに縛られていた、小さな小さな女性が私を見あげた目を忘れません。もちろん、グループホームで笑い転げるお年よりたちにも出会いました。そのときどきの新聞紙面で、本人の言葉や思いも伝えたつもりではあったけれど、家族や現場で支える側の話が主になりがちでした。「本人」はどんな思いで、何を言いたいのか。その世界に深く分け入って、一人でも多くの人に伝えたいと思い続けてきました。
認知症になったら「話せない、何もわからない」のではない。向きあう側や周囲の人たちが聴かなかった、聴けなかった、聴こうとしなかったからではないか、と今、思います。聴く側こそが問われている、のだと。
自己崩壊から自己発見の旅へ
当事者発信の転機は、国際アルツハイマー病協会の国際会議が日本で初めて、京都市で開かれた2004年前後にやってきます。
日本では2003年、筑波国際会議場のホールで自らの体験を話した秋山節子さん(当時70歳)がその先駆けとなりました。朝日新聞生活面で04年8月に連載した「私はアルツハイマーです 語り始めた人たち」は、認知症の当事者発信を伝える初めての新聞連載記事です。本人は実名も写真掲載もOKだったけれど、周囲を気遣うご家族の意向で、「記事は匿名、写真は後ろ姿」になりました。見出しも「痴呆の思い、社会に発信」。15年前を象徴する見出しです。
世界の当事者発信のリーダーはオーストラリアのクリスティーン・ブライデンさん。(1995年に46歳で診断され、元政府高官から一気に、仕事も失った。)04年に私がオーストラリアの自宅に彼女を訪ねたとき、すでに診断されて9年でしたが、彼女は「いまの自分の方が好きだ」とほほ笑みました。それは驚きでした。
そして認知症とともに生きる日々をこんな風に表現しました。
「自己崩壊だと恐れたけれど、自己発見の旅だった。地位や名誉、野心、しがらみ、色んなものがそぎ落とされて、本来の自分になってゆく旅路なんです」と。
「自己崩壊」から「自己発見」へ。いまを生きる鮮やかな言葉に、どれほど多くの人が励まされ勇気をもらったか。私もその1人です。彼女たち世界のリーダーが参加した京都の国際会議が開かれた04年末、厚労省は「痴呆」を「認知症」と呼ぶように改め、時代は動き始めます。
翌年には長崎の太田正博さんが講演活動を始めました。元・長崎県の福祉職員で、クリスティーンと同い年の56歳。「私、バリバリの認知症です」と、ユーモアを交えて明るく語る姿は衝撃でした。主治医とケアスタッフとの、ざっくばらんな座談風「トリオ講演」が新鮮で、最後に太田さんが歌う「マイウェイ」は、聴衆の胸にしみました。各地で講演を続け、それを追っかけた私は、これで日本も大きく変わると期待したのですが、現実は――。地道な取り組みはあったものの、予想以上に時間がかかり、大きく花開くのは、10年後の2014年(平成26年)。当事者団体発足まで待たなくてはなりませんでした。
(2本目の話)令和という岐路 認知症の当事者発信を追った記者の「平成と認知症」2 はこちら
※付き添いさん
病院ではなく、入院している人(患者)が、家政婦紹介所を通して雇う女性たち。病院に泊まり込み、24時間介護をする。患者個人と契約する「家事使用人」の扱いのため、労働基準法が適用されない。取材当時(厚生省=現・厚生労働省=によると1993年には)全国約1万の病院の4割弱が「付き添い」に頼り、4万人の「付き添いさん」が、7万人の患者を介護した。医療保険が一部出る以外、費用は患者負担で、月額は10万円程度から幅がある。厚生省は、「無資格者による付き添いは欧米にはなく、日本の医療の恥部」として、1996年3月をめどに廃止しようとした(97年9月全廃)。私は「恥部」は、いのちにかかわる仕事を低賃金(私の取材した人は時給換算で660円)で彼女たちに担わせてきたこの国の医療・介護のあり方そのものではないか、と思い、廃止前に付き添いさんの実態を知ろうと、94年に病院に泊まり込みのルポをした。「付き添って ルポ老人介護の24時間」(家庭面で39回連載)は、新聞で初の介護をテーマにした長期連載。
- 生井久美子(いくい・くみこ)
- 京都市生まれ。1981年朝日新聞入社。仙台支局、政治部をへて、医療・介護などいのちの現場で、当事者に注目した取材を続ける。仕事はスマホとともに、瀕死のガラケイが頼り。絶滅危惧種といわれてきた。
編集委員などの後、現在夕刊企画班記者。昨年末、人生の回復をテーマにした「私の物語をたどって」(全10回)を夕刊2面で連載。
著書に「私の乳房を取らないで 患者が変える乳ガン治療」(三省堂)「ゆびさきの宇宙 福島智・盲ろうを生きて」「人間らしい死をもとめて ホスピス・「安楽死」・在宅死」(岩波書店)「付き添って ルポ老人介護の24時間」「介護の現場で何が起きているか」(朝日新聞出版)など。
- 「ルポ 希望の人びと ここまできた認知症の当事者発信」
- 認知症と診断された本人(当事者)が42人、主治医や専門医15人、家族や医療・ケアの現場でかかわる人も含むと120人以上の人が登場。巻末に、1970年からの年表「認知症に関連した主な社会改革・できごと」も。2017年度日本医学ジャーナリスト協会賞特別賞受賞。いつも、当事者の人たちに励まされて、何とか記者を続けている。著作の印税は、当事者団体にお届けしています。