編集長インタビュー

「認知症=もの忘れ」という固定観念は間違っている

冨岡 「なかまぁる」は、「認知症当事者とともにつくる」というコンセプトのウェブメディアです。そこで、「本人のための認知症医療」を大切にしている木之下先生にぜひ、初回のご登場をお願いしたいと考えました。

木之下 取材を受けるのはずいぶん久しぶりで、何を話そうかと考えていたんですよ。 「本人のための医療」ね。はっきりそう言いきりたいところだけど、実際の自分の診療を振り返っても難しい。現実はそうもいかないよね。それを大きくひずめる現象がある。

(本人が)暴れるからどうしようもないと、家族が困りはてている。本人には暴れる理由があるけれど、その内容を理解するまえにまず薬を出す。これが「医療」の名に値するのかと。そう言いながら、僕自身もそういう薬を使っている。本人のために、と努力はしているにもかかわらず。そういう負い目もあります。

けれど、その現実を変えるというか、本来あるべき医療の姿、つまり医療を受ける本人のための医療に戻すことをやっていかないと、医療はその存在基盤を失うのではないか、という危惧はある。

ちょっと、話題を変えてみますよ。僕がよく、診察で話すことがあるんです。 たとえばある女性が、「母が大事なものをよくなくし、しょっちゅう言い合いになって嫌になる」というわけです。母親も「自分はボケた。ばかになりました」と。 でも、「忘れ」ちゃあいないんです。医学的に理解できているのは、記憶しづらい状態になっているということ。大事なものほど、どこかに置きますね。だけどそれを、記憶していない。家族からは「どうして忘れるの?」と言われるし、本人も忘れちゃうって思うのかもしれないが、記憶していないことと、忘れるとは違う。ところが「認知症=もの忘れ」の固定観念が強い。本人は記憶していない。

でも忘れちゃあいない。だって記憶できていないんだから。それを忘れた、忘れたと責め立てれば、人間関係はどんどん壊れていく。あたりまえだけれどもね。

冨岡 なるほど。

木之下 認知症の苦しさには、二つの病理があると、僕は考えている。その一つが、この「もの忘れ」です。みんな子どもの頃から宿題忘れるな、忘れ物するなと、「忘れることは悪い」という価値観の中で育ってきているから、罪悪感を持ちやすい。

「がんばれば予防できる、治せる」は本人を傷つける

もう一つは、「がんばれば予防できる、治せる」という社会的な病理。本人がやりたくもない脳のトレーニングとかを押しつけたり、クリニックの受付で必死に診察券を探す親を、手伝わずにじっと見ていたりする子どもがいる。彼らはそれが本人のためだと信じている。でもそれって、うそじゃない?

冨岡 うそですか?

木之下 いまの日本の認知症医療の英知を集めた「認知症疾患診療ガイドライン」にだって、認知症を予防したり、進行を遅らせたりするうえでエビデンス(臨床結果などの科学的根拠)のある方法はないと、はっきり明記されています。けれど、認知症をまるで風邪のごとく、「予防できる、治せる」と信じている人がすごく多い。それは、真実のなかに巧妙にうそが混ざりまくった情報が蔓延しているからです。メディアもそれを喧伝している。

がん治療薬「オプジーボ」につながる研究で、今年のノーベル医学生理学賞を受賞する京都大の本庶佑先生は、その後の記者会見で「(科学的に裏付けのないがん免疫療法を)お金もうけに使うのは非人道的だ。わらにもすがる思いの患者に証拠のない治療を提供するのは問題だ」と強調したと、10月6日付の朝日新聞に書いてありました。

本庶先生が、がんについて発言されたことは、そのまま認知症にもあてはまるのかもしれないと思いました。完全に治したり、予防したりできるなら、話は変わってくるのだろうけれど。いま最大の問題は、認知症になったらおしまい、という社会的気分が蔓延していることだと思う。

木之下先生 編集長インタビュー 冨岡2

冨岡 実は、この手の情報をよく読むと、様々な但し書きがついていたりして、「少なくともうそはついていません」と逃げられるような仕掛けになっている。でもそれは、情報を求めている当事者の視点からは見つけづらいですよね。

木之下 そう。だから「その情報を利用したければ、限定的にそれなりの利用をしてください」というのが、情報を発信する側の理屈だろうけれど、しかし、受け取る側の印象はちがう。仕掛けは巧妙なので、我々としても、こういう情報を「正しい」「正しくない」という認識だけでは、振り分けられない。

「認知症をなくそう」が置き去りにする1000万人

つい最近も、ある企業のプレスリリースに「世の中から認知症をなくしたい」っていうフレーズが踊っていて衝撃を受けた。いま、認知症の人はMCI(軽度認知障害)を含めると、国内に1000万人くらいいると言われています。認知症撲滅をうたうメッセージは、この1000万人を勘定に入れていないわけです。それは排除の世界ではないのかと。

よく似た構造の話でわかりやすいなあと思ったのが、最近のLGBTの(生産性をめぐる)議論です。(杉田水脈氏の)寄稿文は、不幸な文章だったと思いますよ。ただ、それをきっかけとする議論によって、今の世の中の優生思想的な認識、排除の論理に寛容な空気がちょっとあらわになって、際立った形で人権の問題をみんなが考えることができるようになった。

そういう世の中は嫌だよねという批判もしっかり出てきた。この構図はそっくりそのまま認知症にもあてはまるんですよ。「人は皆、等しい価値がある」ということを実現する社会をつくるうえで、認知症は極めて有用な題材でもある。そもそも、「認知症って、そんなに迷惑なことか?なったらおしまいか?」って僕は思うんだけどね。「認知症になってからも、よりよく生きる、ってできるんじゃないの?」って。そういう手伝いを医療や福祉がする、という価値観があってもいいんじゃないかと。

(続きはこちら【ブルーシートに寝かされた認知症の人 共体験した「これは僕だ」】

【注目の記事】

木之下徹(きのした・とおる)
1962年生まれ。86年東京大医学部保健学科卒、96年山梨医科大卒業。2001年から東京都品川区で認知症の在宅医療に取り組む。14年、認知症や軽度認知障害が気になる人の外来クリニックとして、のぞみメモリ―クリニック(MRIあり)を開院した。 白衣は着ない。少し……ぽっちゃりしている。
冨岡史穂(とみおか・しほ)
なかまぁる編集長。1974年生まれ。99年朝日新聞社入社。宇都宮、長野での記者「修行」を経て、04年から主に基礎科学、医療分野を取材。朝刊連載「患者を生きる」などを担当した。気がつけばヒマラヤ山脈、なぜか炎天の離島と、体力系の取材経験もわりと多い。

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