認知症マフの効果とは? 作り方を工夫、使う人の顔が見える支援の輪
2025年には認知症の人が約700万人になると予想されています。近所のスーパーやコンビニ、スポーツジムや公園、交通機関にいたるまで、あらゆる場面で認知症の人と地域で生活を共にする社会が訪れます。少しずつではありますが、認知症の人の思いや立場を尊重した独自の取り組みが個人商店や企業、自治体で始まっています。各地に芽吹いた様々な試みをシリーズで紹介します。
認知症マフって知っていますか? 円筒状のニット小物で、手を通してニットの内外に付けられたアクセサリーを触ることで、認知症の人が安らいだ気分になるといわれています。イギリスの高齢者施設や病院で使われていて、私が朝日新聞厚生文化事業団に在籍していた2016年にイギリスに行ったときにこれを知り、日本で普及活動を始めました。イギリスでは「Twiddle Muff(トゥイドゥル・マフ、手でいじる筒状防寒具)」と呼ばれていて、手芸好きな人がボランティア活動として製作し、地元の施設に贈っています。
2017年に京都市で国際アルツハイマー病協会(ADI)が主催する国際会議が開かれました。会議に合わせて朝日新聞でも特集記事を掲載することになり、認知症の人にやさしい地域づくりで先進的な取り組みをおこなっているイギリスの事例を取材することになりました。そこで認知症フレンドリーコミュニティー(DFC)に詳しい私と記者の2人で現地に出張することになりました。
イギリスでは、市をあげて認知症の人にやさしい地域づくりにいち早く取り組んできたイングランド南西部のプリマスや北部のブラッドフォード、病院の内部を認知症フレンドリーなデザインにリノベーションしているロンドン市内の病院などを訪れ、関係者に会いました。そのときに行く先々で「これを知っていますか?」と見せられたのがTwiddle Muffでした。さすがニットの本場らしくカラフルで温かみがあって、付けられたアクセサリー類も可愛くて、見た瞬間に「これは面白い、日本で紹介したい」と思いました。
誰がこれを作り始めたのか聞いてみましたが、誰もはっきりしたことは知りませんでした。「だいたい5、6年前から流行りだしたかな……」というぐらいで、今でも誰がいつごろから作り始めたのかは不明です。
帰国して早速、懇意にしていた広島県府中町の認知症サポートグループ「だんだん」に製作を依頼しました。グループのメンバーはリタイアした看護師さんや主婦ら約20人で、地元で認知症カフェを運営していました。彼女たちは数カ月後には日本の気候や洗濯のしやすさなどを考えてフリース素材の数十個のマフを作ってくれたのです。これらの認知症マフは、府中町の高齢者施設の利用者に贈呈しました。
その後間もなく朝日新聞厚生文化事業団でも事業として2018年からワークショップを開催することになりました。日本で活動を始めるにあたって、頭を悩ませたのがネーミングでした。「トゥイドゥル・マフ」では何のことかさっぱりわかりません。これが認知症に関連するものだとストレートに伝わらなければと思い、素直に「認知症マフ」と名付けました。認知症マフの製作を通じて今まで認知症に関心が無かった主婦層など一般の人に、認知症のことに関心を持ってもらうことができれば地域福祉に少しでも貢献できるのではないかと考えたからです。今年6月に成立した共生社会の実現を推進するための認知症基本法(認知症基本法)では「地域共生社会」の実現が強く打ち出されていますが、いわゆる自助、互助、共助、公助のなかでも互助、つまり地域住民が主体的に認知症の人を支えていこうということに重きを置いた内容です。認知症マフの製作は、使う人の顔が見える具体的な支援です。「ワークショップを通じて、認知症への正しい理解や支援が広がっていけば」と考えました。
朝日新聞厚生文化事業団が主催する認知症マフワークショップは、2019年からNHKの手芸番組に出演しているニット作家の能勢マユミさんを講師に招いています。能勢さんは初心者でも編めるパターンを考案してくれ、編み図は朝日新聞厚生文化事業団の認知症マフの作り方を伝える特設サイト「認知症マフを作ろう!」でも公開しています。これまでに大阪、東京、鶴岡(山形)、浜松(静岡)などで計10回のワークショップを開催してきましたが、どの回も募集開始後すぐに定員が埋まるほど関心が高いものです。
私もその後何回かイギリスを訪れ、認知症マフを実際に入院患者に使ってもらっているオックスフォード大学病院やNGO団体を訪問しました。昨年10月に朝日新聞厚生文化事業団を退職しましたが、認知症マフの情報収集は続けています。
何回かワークショップを開催しているうちに、参加者から「認知症マフって効果があるの?」という質問が寄せられるようになりました。イギリスでは「おじいちゃん、おばあちゃんに手編みの手袋をあげよう!」といった気軽な取り組みとして広がりを見せている活動ですが、日本の介護・医療現場ではエビデンスの有無が重要で、また外部の人が製作したニット製品を施設のなかに持ち込むことに大きなためらいがあるようでした。
そこで2021年12月に、関西医科大学リハビリテーション学部准教授で作業療法士の三木恵美先生に協力を仰ぎ、認知症の人20人を対象に認知症マフの効果について調査しました。その結果、「マフに触れることがライフレビュー(昔の記憶をよみがえらせること)や回想を促し、対象者の精神心理面によい影響をもたらす可能性が示唆された」と評価してもらいました。しかし、認知症マフは薬やリハビリ用具ではありません。認知症の人といっても症状は千差万別で、認知症マフを渡しておけば大丈夫というものでもありません。まずはコミュニケーションツールの一つとしてとらえていただいた方がよいかと思います。
地域福祉の充実を目指してきた認知症マフの普及活動ですが、2年前から医療分野での活用も始まりました。浜松医科大老年看護学講座教授の鈴木みずえ先生は、認知症の入院患者に認知症マフを使う研究をしています。これまでは入院患者に点滴をするときなど、患者さんが自ら外してしまわないようにグローブのようなミトンをはめてきましたが、この代替えとして認知症マフに着目しました。きっかけは認知症ケアの研究を通じて交流があった、当時、山形県鶴岡市立荘内病院で認知症看護認定看護師をしていた富樫千代美さんが、入院患者の1人が赤いひもをずっと触っていることに気付いたことです。
鈴木先生もちょうどこのころ、海外の事例として認知症マフのことを知り、輸入して富樫さんに送りました。2021年末に荘内病院で4人の入院患者にこの認知症マフを使ってみたところ、点滴から注意がそれたという報告を受けたといいます。もともと点滴チューブやベッドの柵を握って離さない認知症のある患者の状態を見てきた鈴木先生は「これはミトンなどの身体拘束を減らせるかもしれない」と感じたそうです。そして、朝日新聞厚生文化事業団が日本で認知症マフの普及活動をおこなっていることを知って、連絡してこられました。
鈴木先生は研究をまとめた「Twiddle Muff(認知症マフ)活用ケアガイド」(掲載先:浜松医科大学老年看護学領域で開発した実践ガイド)を公開していて、浜松医科大学医学部附属病院、浜松北病院や浜松市に近い磐田市立総合病院など約10の病院と連携をとりながら実践・研究の支援を続けています。鈴木先生は「病院のなかはテーブルやベッド、白いシーツといった無機質な素材で占められています。そうした環境のなかにカラフルで温かくて手触りがいいものが存在すると、患者さんも癒やされます。同時に看護師さんたちにとっても癒やしやコミュニケーションを活発にするツールになっていると感じます」と話していました。
イギリスでは最近の動きとして、救急車に認知症マフを配備しています。ロンドンの北にあるNHSが運営している「East Midlands Ambulance Service」は2019年に英国内で初めて管内の104台の救急車すべてに認知症マフを配備しました。1年間に救急搬送される患者のうち約5000人が認知症の人だそうですが、突然、救急車に乗るというのは認知症の人にとって奇妙で恐ろしい体験になる可能性があります。そのときの混乱を鎮めるため、認知症マフを渡すそうです。
この話を富樫さんに話すと、富樫さんは早速、鶴岡市認知症施策会議に認知症マフのことやイギリスの事例を伝え、2022年12月には消防局や富樫さんが中心になって勉強会を実施しました。そして鶴岡市消防本部は今年1月から8台ある救急車に、1台につき3枚ずつ認知症マフを配備しました。同本部によると1月23日から4月14日の間に認知症のある救急患者のうち10人に認知症マフを使ったそうです。そのなかの1人は血圧測定を拒んだので、認知症マフを使ってもらったところ無事測定することができたそうです。
なぜこの認知症マフがこれほどまでに人々の関心を集めるのでしょうか。私は「カワイイ」「簡単」「貢献」の頭文字をとった“3K”の要素が大きいのでは、と思っています。一目見て可愛く、簡単に編めるニット小物で、それが(社会)貢献につながる……。従来の福祉とは一線を画した、参加型とも言うべき体験が人々の心に刺さっているのではと考えています。
これまでに東京都渋谷区、同新宿区、同府中市、神奈川県相模原市、大阪府四條畷市、兵庫県芦屋市、岡山市、高松市、福岡市などで、ワークショップに参加した地元の社会福祉協議会や地域包括支援センターやボランティアグループが認知症マフの活動をおこなっています。静岡県では、富士宮市の県立富岳館高校や函南町の県立田方農業高校の生徒たちが認知症マフを製作して地域の高齢者施設に贈っています。富岳館高校では今年4月から、生徒たちがデイサービスの施設を訪問して実際に利用者が認知症マフを使っているところを見学しています。同校で認知症マフ作りを指導する山口恭子先生は「地域貢献活動を通じて生徒が認知症の理解を深めて、地域の社会資源を体感して参加することが醍醐味でしょうか。高校生によるソーシャルアクションと位置付けています」と話します。
最初にイギリスでトゥィドル・マフを見てからちょうど7年。認知症マフの輪が着実に広がっていくのを実感しています。