町永が斬る!「認知症」短編映画祭ノミネート作品のココがすごい!
文/町永俊雄 写真/上溝恭香
今年も秀作揃いだった「なかまぁる Short Film Contest 2020」。ノミネート作品のオンライン上映会にコメンテーターとして参加した福祉ジャーナリスト町永俊雄さんから、「まだまだ語り尽くせない」と、コラムの寄稿です。
なかまぁる・ショートフィルムコンテストは、言ってみれば、「認知症」の現在地を示すものだ。「認知症」は今どこに位置付けられるのか、それはとりもなおさず、私たちのこの社会はどこにあってどこに向かうのかを映し出す。
多様な作品群は、雄弁にあるいはつぶやくようにそのことを観る人に語りかけた。
- 『0812』
- 31歳でアルツハイマーになった妻と夫との愛情物語である。二人の細やかに心通う暮らし。そこに慎ましく映し出されるのがスマホである。妻は、自分の失う記憶を「明日の私に」と、スマホに記録させ、それはそのまま二人の愛情確認となっている。
このスマホが象徴するのが、実は支える人々や地域という存在なのだ。
二人だけに閉じた関係性では破綻する。スマホのようにそこにそっと誰かがいてくれること、そのことを映像は語りかけている。
この社会は、幼児期から「忘れ物をしてはいけない」と教え込まれ、忘れることは怠惰、失敗と責める社会だ。
忘れてもいいよ、と言い合える社会というのは、フィルムの二人のように、誰もがまなざし交わす共感に満ちた共同体なのだろう。
- 『おばあちゃんとダンスを』
- 身内に認知症の人がいることは、家族にどんなに理解も愛情があっても振り回され疲弊し、本人もまた自分の認知症を認めたくない。この映像はそのことを世代対立も絡めてリアルに描く。
どんどんできなくなることばかりのおばあさんが、ある日公園でひとりダンスをする姿を見て、家族である孫娘は祖母の人生の歩みに気づく。家族からも疎外された「できなくなる人」ではなく、祖母は祖母の人生の主人公であり続けている。
孫娘は祖母とともに公園で、軽やかな人生のステップを踏むようにダンスを踊る。
映像は、祖母もまた自分の認知症を受け入れる新たなスタートを描き、その「認知症とともに生きる」ことのメッセージを未来の孫娘の言葉に託して終わる。
そういえば、クリスティーン・ブライデンが「私は誰になっていくの」とその絶望を語り、ついで「私は私になっていく」と認知症とともに生きる決意と希望を記した著書の副題は「認知症とダンスを」であった。
- 『劇団かぞく』
- 多層に構成された映像だ。主人公は、レンタル家族を主宰する売れない役者。その彼の葛藤は、自身の人格の「入れ子」構造にある。
疑似家族での彼は、認知症の人にとっての「良き家族」を演じるが、現実には認知症の母を介護する息子である。
その母から、息子の彼は「お父さん」と錯誤され、演じる自分と現実の自分に引き裂かれている。
レンタル家族の仕事で認知症の家族を演じる時の彼は、報酬に値する良き家族を演じられるが、実の母の介護には当たり散らす。
なぜ、彼は演じる時はうまくいくのに、実の母にはそれができないのか。
ヒントは、彼がオーディションで演出家から指摘されたことにある。
「あなたは台本の設定しか演じない。台本の設定を外れてその人物の隠された思いを汲んでいない」
彼は疑似家族では、設定通り笑顔と思いやりを演じることはできるが、実の母親の介護は設定外のことばかり起き、「なんで俺が」という嘆きに、母親の思いを汲み取る余裕はない。
さて、彼はどうしたか。
ネタバレを避け、改めてこの声を記すにとどめておこう。
「あなたは認知症の設定でしか母を見ていない。認知症の設定から離れて、その母の隠された思いを汲んでみたらどうか」
ラスト近く、母の葬儀に、家族を演じるために参列した主人公の弟が、ポツリと自分を取り戻すシーンが印象に残る。
- 『パパのパイ』
- 認知症をその時だけのエポックとすれば確かに重くつらい側面が前景化する。
でも長い人生の旅路の中に描くと別の風景となる。そんな絵本のようなファンタジー。
コグマと親グマの物語。ケンカして夢破れて失恋して、コグマは失敗と挫折の連続だ。そんなことあるごとに親グマは甘くてやわらかなパイを焼く。そして歳を重ね、親グマが認知症になる。育んでくれた親グマのために今度は大人になったコグマがパイを焼いた。
親子の人生の旅路のつらさと困難のたびに焼かれる「パパのパイ」とは何を物語るのだろう。
それは、人生は「分かち合い与え合う」こと、ということだ。互いに分かち与え合うパイに託す思い。
親は子供に一方的に与えるのではなく、老いた親は子供に与えてもらうのではない。
貨幣経済に先立つ私たちの共生の社会は、与え合う贈与の社会だったと言われる。支え合いが、福祉の言葉の限定であるのなら、与え合うということは「ともに生きる」ことの私たちのメッセージだ。
認知症を高齢者の問題とするだけのかたくなさを溶かす夢がここにある。
今年のショートフィルムコンテストをひとしおの思いで観た人も多かっただろう。
それは誰もがコロナとの日々を経験したということだ。つながりが途切れた暮らしと地域の中で改めて感じたことはなんだろう。この4作のどれにも共通するのは、つながりを確認し、つながり直した人々の姿である。
認知症は人とのつながりが難しいと言われる。が、この映像を観ると認知症こそがつながりを作るのだとも思えてくる。
後編は異色の作品ぞろいだ。笑いや深淵や叫びに託して認知症の世界が描かれる。