「カメラ向けられない時期あった」映画監督が語る異例ヒットの裏側・前編
構成/上田恵子 撮影/齋藤大輔
ドキュメンタリー映画『ぼけますから、よろしくお願いします。』監督の信友直子さんが2019年10月に、同じタイトルの著書を上梓。こちらも話題になっています。映画はなかまぁるでもご紹介し、東京・築地の朝日新聞東京本社で上映会も開催しました。
映画撮影の裏話や、本に込めた思いについて、なかまぁる編集長・冨岡史穂が聞きました。
自分自身に引き寄せて観てしまう“体感ムービー”
冨岡史穂(以下、冨岡) 信友監督とは、1年前に上映会をさせていただきました。その時点で約3万人の方が映画をご覧になっていたと記憶しているのですが、それが今や――。
信友直子(以下、信友) スタッフさんに確認しましたら、現時点(2019年12月半ば)で劇場が97館、動員が約93,000人。上映会は364本で動員約50,000人だそうです。
冨岡 大ヒットですね。振り返ってみて、この1年はどんな年でしたか?
信友 目まぐるしかったです。1年前は、こんなことになるとは思っていませんでした。せっかく作ったのでヒットしてほしいとは思っていましたが、ドキュメンタリー映画は本当に地味ですし、劇映画ほど動員しないものなので。しかも登場人物である私の両親は、広島の田舎に住んでいる普通の老人ですから(笑)。本当にありがたいですし、ビックリしているというのが正直なところです。
冨岡 この映画が、これだけ多くの人の心を掴んだ理由は何だと思われますか?
信友 「自分の親を観ているようだ」とか「自分の未来の姿です」といった感想をよくいただくのですが、皆さん自分自身に引き寄せて観ていらっしゃるんですね。他人事ではなく、自分事として観ている。そこではないでしょうか。うちの親が、どこにでもいる無名の老夫婦だったことも大きいと思います。
冨岡 ご実家も、ものすごく見覚えがある昭和の一軒家で。
信友 玄関をガラッと開けて「ただいま~!」と叫ぶと、奥から「おかえり~!」と声がする感じの(笑)。私たち世代にとっての日本の原風景ですよね。ある方に「これは“体感ムービー”ですね」と言われたのですが、なるほどと思いました。
自分の考えを言葉にしたい欲望があった
冨岡 今回、どのようなきっかけで本を書こうと思われたのでしょう?
信友 新潮社の方が映画を観て申し入れをしてくださいました。ふたつ返事で「書きたいです!」と。私はもともと「ドキュメンタリー映画の中に、ナレーションで自分の考えを入れるのはダサい」という考えの持ち主です。ナレーションにはどうしても主観が入りますし、主観が入ると観る人に1つの観方を強要する形になってしまいますから。なのでこの映画でも、ナレーションは極力少なくしているんです。
冨岡 確かに、信友さんは映画の中で多くを語ってはいませんね。
信友 その一方で「実はこんなふうに考えているんですよ」と言葉にしたい欲望もすごくあって。言いたいことが溜まっていたところにお声掛けいただき、「ぜひ!」となったわけです。
冨岡 読ませていただいて、初めて知ったことがあります。そもそも監督は、お母様が認知症になるずっと前から、練習がてらにご両親を撮っていたそうですが、カメラを向けられない時期があったのですね。あらためてお聞きしたいのですが、どうして撮れなくなってしまったのでしょう?
信友 母の「あれ、おかしいな?」という部分が徐々に見えてきたこと、そして彼女が私にそれを隠そうとしていることに気づいたからです。母はもともとプライドが高い人です。私がカメラを向けることで粗相が映ってしまうと母が傷つくのではないか、と考えたんですね。今思えば私自身の中にも、認めたくない、目をそむけたいという気持ちがあったような気がします。
「お母さんがおかしいから撮らないの?」
冨岡 ところがある日、お母さまから「お母さんがおかしいから撮らないの?」と言われた。あれはすごい言葉ですね。
信友 びっくりしました。一緒に台所にいた時にサラッと言われたんですけど、母も気にしていたんだなと思って。その時、母に対してはいつも通りに接していたほうが傷つけずに済むんだな、ということにも気づきました。
冨岡 信友さん自身にも撮りたい気持ちがあった。
信友 ありましたね。認知症の人がいて目の前でこんなことが起きているのに、ディレクターとして撮らないわけにはいかない。「母の許しが出たのだから撮りましょう!」という感じでした。
冨岡 とはいえ撮影を再開してからも、ご両親が老老介護かつ引きこもりに近い状況というのは変わらなかった。その閉じた扉を開くきっかけの1つになったのが、2016年の9月に放送された情報番組『Mr.サンデー』での放映だったわけですね。
信友 そうです。私としては、仮に両親の記録を世に出すにしても、それは2人が亡くなってからだなと思っていたんです。でも番組のスタッフが「お母さんが認知症になる前からの映像がある。これは凄いことですよ」と。私自身は、そんなふうに言われて初めて気づいたので驚きました。
冨岡 お父さまに「2人のことを番組で紹介したいんだけど」と相談したら、「あんたがやりたいのなら協力する」と言われたと。
信友 はい。それで覚悟が決まりました。
ぼけたから何もわからない、ではない。本人が一番辛い
冨岡 お母さまが台所のテーブルの下で「私、おかしくなった」と語るシーンは衝撃的でした。
信友 私がボーッとしている時、母が急に言い出したんですが、あの時初めて母が心情を吐露したんです。それまでは冗談のようにしか口にしていなかったのに。「すごい!」と思い、咄嗟にカメラを取りに自分の部屋に走りました。私、母が認知症になる前は「ぼけた人って何もわからなくなるんじゃないか」と思っていたんです。でも現実はそうじゃなくて、本人が一番辛いのだということがだんだんわかってきた。本人が一番最初に気づいて、一番葛藤していて、一番絶望しているのだということを、あのシーンを観てわかってもらいたいという気持ちもありました。
一歩引いて第三者としての目線で
冨岡 テレビで放送されることが決まる前と後とでは、ご両親の撮り方は変わりましたか?
信友 変わりましたね。それまで撮っていなかった2人だけの日常生活を撮るようになりました。私がいないとき、母が普段どんなふうに暮らしているのかを、第三者としての目線で。たとえば映画の中に、父がスーパーで買い物をして、両手に重い買い物袋を下げてヨロヨロ歩く後ろ姿が映っています。あの姿は私も、あの時初めて見たんです。それまで私が帰省した時は、私が買い物に行っていましたから。
冨岡 洗濯機のまわりに汚れた洗濯物をばらまいて、そこにお母さまが寝転んでしまうシーンもありました。
信友 あのシーンも、私が手を貸して洗濯していたら撮れなかったものです。「こんな大変なことになっているのか!」と驚きましたし、だからこそ両親に「介護サービスを入れなきゃ」と強く言えた。介護の人たちも、あの映像を観てくれたからこそ「これは大変だ」とわかってくれたので、介護サービスにつなげるためにも、映像にして良かったと思いました。
冨岡 親と離れて暮らしている人にとって、とても参考になるシーンだったと思います。実家に行くとつい手伝ってしまうし、電話をすると親は絶対に「大丈夫」と言いますから。時には手を貸さず、見ていることも必要なのかもしれませんね。
信友 自分がいない時に2人はどうしているか、どんなふうに大変なのか。心苦しいけれども、一度、一歩引いて確認することが大事なのだと思います。
※2月7日公開の後編に続きます
- 信友直子(のぶとも・なおこ)
- 1961年広島県呉市生まれ。東京大学文学部卒。86年から映像制作に携わり、フジテレビ「NONFIX」や「ザ・ノンフィクション」で数多くのドキュメンタリー番組を手掛ける。放送文化基金賞奨励賞、ニューヨークフェスティバル銀賞・ギャラクシー賞奨励賞など複数受賞。北朝鮮拉致問題、ひきこもり、若年認知症、ネットカフェ難民などの社会的なテーマから、アキバ系や草食男子などの生態という現代社会の一面までを切り取っている。
- 冨岡史穂(とみおか・しほ)
- なかまぁる編集長。1974年生まれ。99年朝日新聞社入社。宇都宮、長野での記者「修行」を経て、04年から主に基礎科学、医療分野を取材。朝刊連載「患者を生きる」などを担当した。気がつけばヒマラヤ山脈、なぜか炎天の離島と、体力系の取材経験もわりと多い。