努力しないと母を愛せない 映画監督が語る異例ヒットの裏側・後編
構成/上田恵子 撮影/齋藤大輔
ドキュメンタリー映画『ぼけますから、よろしくお願いします。』監督の信友直子さんが2019年10月に、同じタイトルの著書を上梓。こちらも話題になっています。映画はなかまぁるでもご紹介し、東京・築地の朝日新聞東京本社で上映会も開催しました。
映画撮影の裏話や、本に込めた思いについて、なかまぁる編集長・冨岡史穂が聞きました。
※前編はこちらから
もう努力しないと母を愛せない
冨岡 著書の中に、認知症専門医の今井幸充先生から「家族はその人を愛することが一番の仕事」と言われてハッとした、という一文があります。これはご両親と離れて暮らす信友さんにとって、大きな言葉だったのでは?
信友 そのとおりです。たとえば以前の私は、母の下着を他人に洗ってもらうことを申し訳ないと思っていたんですね。でも考えてみたら、洗濯って誰にでもできることで、絶対に家族がやらなきゃいけないというものではない。洗濯に限らず「お願いできることはヘルパーさんにお任せする」という覚悟を決めることも大切なのだと気づかされました。
冨岡 もう1つ、ものすごく覚悟を決めて書かれたと思うのですが、もう努力しないとお母さまを愛せなくなっていると記された箇所がありました。
信友 そこは自分でも書こうかどうしようか悩みました。でも、私と同じことを考えて自分を責めている人は少なくないのではないか、と思ったんです。「認知症になって変わってしまった親を愛せない。私はひどい娘だ」と自責の念を持っている人に、「あなただけじゃないですよ」というメッセージを出したほうがいいんじゃないかと。
冨岡 私は映画を観た時に「いいご家族だなあ」と思うと同時に、「自分は親の介護が始まった時に、信友さんのように優しく声を掛けてあげられるだろうか」と考えてしまったんです。それだけに、信友さんが正直な気持ちを書いてくれたことで救われましたし、同じように感じた読者はたくさんいただろうと思います。
信友 そこに一番感銘を受けたと言ってくださる方は多いですね。
延命治療について話し合っておけば良かった
冨岡 脳梗塞で入院されたお母さまですが、その後いかがですか?
信友 最初は片側だけの麻痺だったので、本人も家に帰りたい一心で頑張ってリハビリをして、補助があれば立ったり歩いたりできるところまでいったんです。でも多発性だったため、後日もう片側も麻痺してしまって。そうなるとあとは寝ているしかないので、一気に弱ってしまいました。
冨岡 そうなんですね……。
信友 物を飲み込む機能がダメになって肺炎を起こしたこともあり、最初は鼻から管を入れていたんです。ところが認知症なので管がある理由が理解できず、手で取ろうとするんですよ。で、手にグローブをはめられて。
冨岡 拘束されたような感じに。
信友 そうです、そうです。しかもその管を3週間に1度、鼻から出し入れするんですが、それがまた痛そうで、涙をポロポロこぼしてね。あまりにかわいそうなので考えた末に胃ろうにしたのですが、果たして正解だったのかどうか……。
冨岡 今も迷っていらっしゃる。
信友 よくわからないままそうしたものの、胃ろうって延命治療の一種じゃないですか。多分、母の性格から考えると「胃ろうまでして長く生きたくない」と言ったと思うんですよ。今になって、母が元気なうちに、そういう話をきちんとしておけば良かったなあと後悔しています。
親が命がけでしてくれる最後の子育て
冨岡 とはいえ、家族として何もせずにはいられない。
信友 そうなんです。目に見えて痩せていった母が、胃ろうにしたとたん顔がふっくらしたんですね。やっぱりそれを見た時はホッとしました。一応、胃ろうにする前に、母に「ここから直接栄養を入れるようにした方がいいと思うんだけど、そうする?」と尋ねたら「うん」と言ったんです。わからないながらも同意を得たというか、家族としてはその言葉を信じるしかない。
冨岡 やっぱり「生きていてくれるだけでいい」という気持ちになりますよね。
信友 父のことを思うと余計にそうです。たとえ寝たきりでも、母の存在が父の生きる支えになっていることは間違いないので。今も、さすがに毎日は無理ですが、父はシルバーカー(高齢者用の手押し車)を押しながら、せっせとお見舞いに通っています。母の顔を見ながら「元気になれよー」って(笑)。母が生きていることは、家族全員にとっていいことなんです。
冨岡 認知症1000万人社会とも言われていて、「誰もが認知症になる可能性がある」という認識は少しずつ広まっているのかと思いますが、信友さんが新たに得た視点のようなものはありますか?
信友 ありますね。たとえば上映会の後、親の介護をしていらっしゃる女性の方から「介護というのは、親が命がけでしてくれる最後の子育てだと思った」という言葉をいただいたんです。父と母が元気なうちにその言葉をいただいて、すごく良かったと思いました。父と母は「人は皆、こうやって老いていくんだよ」ということを見せてくれようとしているわけですから、私はそれを全部見ようと。
冨岡 なるほど。
信友 と同時に、それを文章や映像にして皆さんにお伝えすることが、なんとなく私の使命のようにも思えてきて……。なのでこれからの父と母のことも全部見て、全部伝えていきたいです。小さな家族ですけど、皆さんにありのままをお見せして伝えていくことで、何かのお役に立てれば。
私が認知症になったら自分でカメラを回します
冨岡 信友家の3人を見るだけで救われる人は、きっといると思います。
信友 父は99歳ですし母も90歳なので、このまま死に向かうしかない。私も強い人間ではないので、途中でカメラを置くことがあるかもしれません。でも置いたとしても、それほど辛かったのだと後に文章で伝えてもいいですしね。
冨岡 今回の本のように。
信友 はい。あと、うちは祖母も母も認知症になったので、私もなるかもと思っています。考えるとちょっと怖いですが、どうせならカメラを回して自撮りをしようかなあ、なんて。いよいよ撮れなくなったら、誰か信頼できる後輩に「私が老いて死んでいくまでを記録して」と託せばいい。どんなふうに撮ろうか考えていたら、なんだか楽しみになってきました。(笑)
冨岡 ご自身を主人公にしたドキュメンタリー映画ですね。
信友 認知症に限ったことではなく、みんな、病気になる前が一番怖いと思うんです。私が乳がんになった時もそうでした。宣告された時は「これからどうなるんだろう」とショックを受けたものの、実際になってみたら、幸せへのハードルが下がってすごく生きやすくなった。それまでは「あれも欲しい、これも欲しい」と自身の欲望にからめとられているような感じだったのが、生きているだけで幸せだと思えるようになったんです。
いつかは底を打って浮上できる日がくる
冨岡 病気になる前より生きるのが楽になった。
信友 だから認知症も同じで、いつかは平和な境地にたどり着くのではないかと。母も今は平穏ですしね。どんな状況もずっと底なし沼ということはなくて、いつかは底を打って浮上できる日がくる。我が家は引きこもりのような状態から、テレビの話をいただいたことで浮上できました。認知症になっていいこともありましたし。
冨岡 具体的に、どのようなことでしょう?
信友 あらためて父を見直すことになって良かったなあとか、父と母の絆が深まってラブラブになって良かったなあとか(笑)。無理やりですけどね。病気になってしまったものは仕方ないし治らないんだから、あとはもういかに楽しく共存していくかを考えないと。これからも絶望したり泣いたりすることもあるでしょうが、それも含めて父と母が子育てをしてくれているのだと思って、進んでいきたいと思います。
冨岡 本当にそうですね。私にとって信友さんは、メディアで働く女性の先輩であり、一人娘という同じ境遇であり、取材スタイルや作品への思いなど、共感することがとても多いんです。今回も素敵なお話をありがとうございました。
(終わり)
- 信友直子(のぶとも・なおこ)
- 1961年広島県呉市生まれ。東京大学文学部卒。86年から映像制作に携わり、フジテレビ「NONFIX」や「ザ・ノンフィクション」で数多くのドキュメンタリー番組を手掛ける。放送文化基金賞奨励賞、ニューヨークフェスティバル銀賞・ギャラクシー賞奨励賞など複数受賞。北朝鮮拉致問題、ひきこもり、若年認知症、ネットカフェ難民などの社会的なテーマから、アキバ系や草食男子などの生態という現代社会の一面までを切り取っている。
- 冨岡史穂(とみおか・しほ)
- なかまぁる編集長。1974年生まれ。99年朝日新聞社入社。宇都宮、長野での記者「修行」を経て、04年から主に基礎科学、医療分野を取材。朝刊連載「患者を生きる」などを担当した。気がつけばヒマラヤ山脈、なぜか炎天の離島と、体力系の取材経験もわりと多い。