腕利きの縫製職人が、現役引退を考えた理由 認知症と生きるには55
大阪で「ものわすれクリニック」を営む松本一生さんのコラム「認知症と生きるには」(朝日新聞の医療サイト「アピタル」に掲載中)を、なかまぁるでもご紹介します。今回は、現役の人が認知症になった場合、どのように社会から引退するかについて、紹介します。(前回はこちら)
今回も「現役の人が認知症になった場合、どのように社会から引退するか」という課題を取りあげます。仕事をしているさなかに認知症が始まり、その事実を本人が気づいていない時には、周囲は「ハラハラ」「ドキドキ」しながら見守ることになります。一方で、当事者自身の気持ちや判断が尊重されることが大切です。認知症になったからと言って、決して「何もできない」人になるのではないのです。できる限り自己決定をサポートしたいと思うのは、周囲の共通の思いでもあります。
家族の物忘れに気づいたら…
家族が「あれ? 物忘れかな」と思ったとき、気軽に相談できる場所は、たくさんあるように見えて実はそれほど多くありません。就労している人の認知症に気づいた家族が、当事者に引退を話すのはなかなか難しいことです。これまでのその人の能力を知っているだけに、いざとなった時にちゅうちょする気持ちが家族にもあります。
自宅で妻と共に洋服の縫製を50年近く続けてきた76歳の山崎哲夫さんという男性(仮名、アルツハイマー型認知症)の場合もそうでした。彼の縫製には全く乱れがありません。アルツハイマー型認知症の人のなかには、視空間失認といって見えているものの位置関係が悪くなる人もいますが、山崎さんの仕事はほぼ完璧でした。
仕事量が減ってきたものの、定期的な仕立ての仕事は絶えません。そのたびに妻は「大切な預かりものを失敗したら、洋服店にも顧客にも迷惑がかかる」と心配し続けていました。しかしそこは職人の技、妻の心配をよそに山崎さんの縫製に対して、依頼元からの返品は全くありませんでした。
認知症と診断、本人は認めず
しかし彼のふだんの生活での物忘れはかなり進行していて、明らかに認知症のレベルでした。近い過去の記憶だけではなく、かつての山崎さんなら全く支障をきたすことなくやれていた作業を、時には忘れてしまうことがあり、都心の専門病院で「認知症」と診断されてしまいました。
「病気と診断されたからには仕事を辞めないと迷惑をかける」と心配した妻が最初に相談したのは、診断を受けた大病院の相談室でした。対応してくれた社会福祉士のケースワーカーは、山崎さんがこれから受けることができるさまざまな社会制度について説明してくれました。相談専門のケアマネジャーが介護保険についても細かく教えてくれました。
でも、妻の悩みは消えません。だって山崎さんは自分が認知症であること自体を認めないのです。介護保険の話をすると「介護保険? どうして現役で仕事もしている俺が介護保険なんだ。それはおふくろの話か?」と、すでに見送って20年近くたつ母親が生きているかのように話し出し、話がずれてしまうのでした。
困った妻は住まいの近くにある「地域包括支援センター」にも足を運び、いろいろと情報を聞きましたが、課題が具体的になっていない現状では「時々困ったら相談に来てください」と言われ、経過を見ることしかできませんでした。
思い切って地域に展開する認知症カフェ「オレンジカフェ」に行くことも考えました。当事者でも家族でも相談でき、そこに集うことができる場で、たくさんできてきて気軽に参加する人も増えているのですが、山崎さんは「仕事があるのに喫茶店には行っていられない」とこれもまた拒否します。地域に展開する家族会や福祉施設がやっている「当事者・家族相談」などにも相談しましたが、なかなか話が進みませんでした。
第三者が相談に
そんな時、地域にいる訪問看護師の男性が山崎さんのことについて相談を受けてくれることになりました。その看護師は大病院から山崎さんのサポートを引き継いだ地域の外科医(在宅療養支援診療所)から話を聞きました。自負心がある人には家族の説得だけでは難しく、誰か第三者がアドバイスすることで、仕事から撤退できたケースも知っていました。病気ではないと言い張る山崎さんに看護師として健康相談の形をとりながら、10カ月かかりましたが山崎さんとの理解を深めました。山崎さんが健康診断のつもりで受診した際に初期の大腸がんが見つかったことで、自分で「仕事から引退する。人さまには迷惑をかけられない」と現役を退くことを決めました。
訪問看護師は治療面だけでなく、引退した山崎さんのその後の「生きがい」を見つける事にも協力し、現在、山崎さんは「オレンジカフェ」でコーヒーを入れるマスター役として自負心を保ちながら生活しています。
うまくいく場合ばかりではありません。もっと困った話もたくさんあります。でも、家族だけではなく誰か他人からのアドバイスを生かして、ケアにつながる明かりを見つけましょう。
次回は認知症の家族の運転について書きます。
※このコラムは2019年11月15日に、アピタルに初出掲載されました