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50歳から初めての一人暮らし 亡き夫と暮らした家にいると新しい道に踏み出せなかった 自分の生活のマネージが大切 南雲朋美さんの「私のproject50s」

南雲朋美さん

50s(フィフティーズ)といわれる50代の人たちのインサイトに迫るインタビューシリーズ「私のproject50s」の3回目は、地域ビジネスプロデューサーの南雲朋美さん(54)です。南雲さんにとってのライフシフトや、これからの生き方、考え方、アクションについて語ってもらいます。みなさんと一緒に、人生100年時代の折り返しからの50年を「Well-being&Social Good」な人生にすべく、考えていきたいと思います。

南雲 朋美(なぐも・ともみ)
1969年、広島県生まれ。「ヒューレット・パッカード」(HP)の日本法人で業務企画とマーケティングに携わる。34歳で退社後、慶應義塾大学総合政策学部に入学し、在学中に書いた論文「10年後の日本の広告を考える」で電通広告論文賞を受賞。卒業後は星野リゾートで広報とブランディングを約8年間担う。2014年に退職し独立。有田焼のブランディングを皮切りに「土と地形と歴史」から地域の本質的な魅力を掘り起こす、という独自のアプローチを使い、地域ビジネスのプロデュースを担う。他、慶應義塾大学で「パブリック・リレーションズ戦略」を教える。神奈川県在住。

新築時に二世帯住宅にしなかったわけ

50歳から初めての一人暮らし

南雲さんは、50歳のとき、神奈川県の大磯町に移住されています。それはなぜですか。

南雲さん:以前は、八王子と目黒の2拠点生活だったんですが、49歳のときに夫が亡くなったことをきっかけに、大磯に拠点を移しました。

――八王子出身ですか。

南雲さん:生まれたのは広島県ですが、6歳の時に、東京の八王子市に引っ越したので、ほぼ八王子育ち、ということになりますね。八王子の自宅は、母の家と隣り合わせになるように建てました。そのきっかけになったのは、父が亡くなったからなんです。母は不便な場所に住んでいたので、そこに一人で住まわすのが心配だったのと、ちょうど私たちも新しい家がほしかったので、隣同士で家を建てることにしたんです。当時、夫も私も海外に行く予定があったので、二世帯住宅にすると切り売りができないし、母が死んだときに私も姉と弟がいるので相続問題も大変と思ったので、別会計できるように、2棟建てられる敷地を探したんです。

――賢いやり方ですね。

南雲さん:私の夫が亡くなったとき、母は、私と隣り合わせのままでいたかったと思うんです。ですが、私は、夫と30年近く一緒に暮らした家に住み続けると、新しい道に踏み出せないと思いました。なので、まずは大磯に拠点を増やし、その環境に自分も母も馴染ませるために2年かけて、大磯を本拠地にしたんですよ。

――アラフィフで一人暮らしを始めて、地域のコミュニティにうまく入れていますか。

南雲さん:私の場合、大磯に2人友だちが住んでいたんですよ。なので、友だちからいろいろ派生して友だちが増えていった感じですね。

畑から眺める大磯の風景。海と山と人家が見えるこの風景が南雲さんのお気に入り(提供写真)

「やっと自由になった」ではなく「もっと好きなことができるんだ」

夫がいるときと夫がいなくなってからの違い

南雲さんが地域ビジネスプロデューサーを始めたのは44歳のときです。49歳のとき、慶應義塾大学の講師を始めました。40代後半のアラフィフのとき、キャリアプランやライフプランはどのようなイメージでいましたか。

南雲さん:夫がいるときと、夫がいなくなってからのときでかなり違います。私がHPに勤めていた26歳のとき、自分が高卒であることに、どこか引っかかっていたみたいで、たった1カ月ですがアメリカに語学留学をしました。サンディエゴ州立大学(SDSU)に併設されている語学学校に行ったんですが、SDSU側の教授に「授業の邪魔をしませんから」とお願いして、授業料も払わずに経営学や倫理学の講義を受けてました。向こうの生活が、とても楽しかったので、帰国するとき、「もし結婚してなかったら、このままこっちに残ったかもしれない」と考えたことがありました。夫はまったく私を束縛しない人だったんですが、「もし結婚していなかったら、もっと自由だったんじゃないか。その一方で、夫がいるから帰る家がある。だからこれでよかったんだ」と思い直したのも事実です。

――亡くなってからは。

南雲さん:夫が亡くなって「やっと自由になった」とはまったく思っていません。でも、私は自分の人生において、家族と23年間、夫と26年間過ごし、一度も一人暮らしをしたことがなかったんです。今、こうして初めての一人暮らしをしていて、ふと「誰にも気兼ねしないで好きなことができるんだ」という風に「前向きさ」を感じることがあります。今は、まだ途上ですが、心底、一人でも楽しいと思えたら、本当の意味で「自立した」と言えるのではないかと思うんですよ。

キャリアプランやライフプランについて語る南雲さん

「仕事を超えた価値観の受け渡し」をしていたから退社後もつながり続けたネットワーク

LIFE SHIFTと肩書

「地域ビジネスプロデューサー」という仕事にどのようにしてたどり着いたのでしょうか。

南雲さん:星野リゾートを辞めたとき、「退職したので、スペイン700キロを40日かけて歩いてきます」とSNSに投稿したのがきっかけでした。それを見た知人が、佐賀県が「有田焼400周年記念事業」のプロデューサーを探しているので「やってみないか」と声をかけてくれて。やったことがない仕事だったので、恩師や昔の上司に相談すると、「それは誰もが出来る仕事ではない、やってみろ」って。その言葉に背中を押され、お引受けしたんです。「地域ビジネスプロデューサー」は、その知人がつけてくれた肩書きで、今もそれを名乗っています。

――どのようにその肩書が広まり、定着していったのですか。LIFE SHIFTを考えている人にも参考になります。

南雲さん:星野リゾート時代、広報や企業コラボしたことで、外の人たちとコミュニケーションをすることがとても多かったんです。そのネットワークがあったからこそ、その肩書で道が開けてきたのだと思います。

――ビジネスマンが仕事を辞めると、仕事上の付き合いがパッタリとなくなって孤立し、苦労するという話をよく聞きます。

南雲さん:私も会社を辞めたとき、仕事上のつき合いの人は全部いなくなると思っていたんです。「星野リゾートの南雲さん」として付き合ってもらっていると思っていましたので。でも辞めたとき、何人もの仕事の関係者から「一緒にご飯食べよう」といわれたんですよ。びっくりしました。「もう辞めてしまうので、『星野リゾート』という冠はつかないんですよ? ただの南雲になったのに、なぜ会ってくれるんですか?」みたいなこと聞きました。そしたら「なにをいっているの? 私は星野リゾートの南雲さんとして付き合っているつもりはなくて『南雲さん』として付き合っていたのに、失礼しちゃうわね(笑)」みたいな感じで。そんな訳で、星野リゾート時代はもとよりHP時代のネットワークも残っていて、いまだにご飯を食べに行ったりする関係性が続いています。仕事していたときから「仕事を超えた価値観の受け渡し」みたいなことをやっていたんじゃないかと思います。

世界遺産にもなっているスペインの巡礼路700キロを歩いた=南雲朋美さん提供

自分がこれから生きていくのに、いくら必要かを50歳で算出した

主観的幸福感と自分の生活のマネージ

南雲さんの主観的幸福感というのは何なのでしょうか。

南雲さん:自己実現ですね。趣味で自己実現する人もいると思うんですけれど、私の場合は仕事だったんです。「決められたことを決められた通りにやる」ということではなくて、「昨日より1秒でも早く終わらせてみよう!」とか、「すこしでも、仕事が楽になる人を増やそう!」みたいな目標をたてて、それができると、小さい「イェーイ」みたい達成感を感じていました。そういう小さい「イェーイ」を積み重ねることがたぶん楽しかったんだと思います。

――今はいかがですか。

南雲さん:私は自己肯定感が低いので、まずは、自分を好きになることが課題じゃないかなと考えています。自己否定をしないで、どうやったら自分が自分に満足できるかということを考えて、実践することが必要だと思います。

――アラフィフとか、50代になると、これからどう生きていこうかなと考え始める人が多いですが、南雲さんはいかがですか。

南雲さん:恥ずかしながら夫が亡くなったとき、私は毎月いくらお金を使っているのか、全然分かっていなかったんです。家計簿もつけてないし、銀行の普通口座には、もらった給料をそのままにして、何の財テクもしていないし、自分がいくら使っているかもわからないという有様だったんですよね。家に届く、私宛の請求書や振り込みも、夫が「払っといたよ」という状態でした。

――では一人暮らしを始めたときは大変だったのでは。

南雲さん:そうですね。家賃の相場を知らないので、これが高いのか安いのかも分かりませんでした。住民税の仕組みも、国民健康保険と国民年金の違いもわからない。そんなことを笑いながら友人に話したら「笑い事ではない。今すぐ、自分の生活をマネージしなさい」と言われ、そこから家計やお金の本を読んだり、住民税など税金の仕組みは役場や税務署に出向いて教えてもったりなどして猛勉強の毎日。個人事業主なので事業費などはきちんと管理していたけど、生活費については放置。今、思い出すと本当に恥ずかしいです。

――「自分の生活のマネージ」で他にも始めたことありますか。

南雲さん:1日の使い方です。夫が亡くなった当初は情緒不安定で、毎日、何をやったら良いのかわからない状態でした。なので、何時に起きて、何時に寝て、いつまで仕事をして、いつ休憩するなど、15分ごとに自分の予定を組んでいました。今は、もっとおおらかに予定を組んで、仕事とプライベートのバランスがとれるようになっています。家計の管理を徹底してやったこともあり「私という人間はここにこういうお金を使うんだ」「ではこれからどういうお金の使いかたをしたらいいんだろう」ということとかを考え始めたとき、「私には毎月いくら必要だ」とやっと分かったんです。それで自分がこれから生きていくのに、いくら必要かを50歳で算出したんですね。

仲間と一緒に作った野菜でランチ中の南雲さん(提供写真)

1万円の価値は、54歳の私と18歳の学生では違います

壮大で豊かな時間

――イメージ通りにいっていますか。

南雲さん:凸凹はありますが、ほぼイメージ通りです。大磯での生活は、コロナ禍になったこともあり、あるものや近くのもので間に合わせるようになったことも大きく影響しているんだと思うんです。一番高い支出は家賃ですが、洋服も買わないし、遊びは畑や山や海なので、お金はかかりません。仕事であちこち出張行くので、あえて旅をしなくてもそこから足伸ばして周遊すればもう立派な旅です。友だちが大磯に何人もいるので、飲みに行くより友だちの家にご飯を食べに行く方が多いので外食費も少ないです。お金の管理を徹底したことで分析ができるようになり、お金の使い道を考え直すようになりました。例えば、1万円の価値は、54歳の私と18歳の学生では違います。それに気がついてからは、寄付をしたり、見込みがある若者や企業に「投資」をしたりという応援をするようになったんです。夫が亡くなって一人になったことで、「どう貯めるか」というか「どう稼ぐか」みたいなものを考え、今は「どう使うか」ということを考えていますね。

――畑というのは家庭菜園みたいな感じですか。

南雲さん:友だちがやっている畑2反~3反を手伝っています。無施肥、無農薬、不耕起栽培で作物を作り、冬期湛水で米作りを目指す人たちがいます。そもそも、どうやって農作物が育つのか知らないこともあり、やり方とか考え方がすごく面白いなあと思っています。仲間で協力して、もち米を育てておもちを作ったり、麦を育てパンやうどんを作ったり、大豆からはしょうゆやみそを作ったりしています。壮大で豊かな時間です。

――私も1反ぐらい畑をしています。

南雲さん:大磯は山もあるし海もあるので、気分転換に登山に行ったり、暑いときには海に行って、服のまま、じゃぼんと海に入ったりとかしています。最近は、原生林に近い森つくりにも興味がでてきて、植生管理士の勉強をしつつ、廃墟や空き地を森に替える仕事をしています。森になるには50年かかるといわれていますが、生物学的に女性は130歳まで生きられる可能性があるという話もあるので、今やれば、私でも見ることができるかもしれない。明日死ぬかもしれない、けれど、あと50年生きるかもしれない、そう思って毎日を過ごしています。

「森の再生」について研修中の南雲さん(Silva提供写真)  

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