認知症とともにあるウェブメディア

妻と確認した50代からの生き方 子どもからは「お母さんが寂しがるから先は駄目」 古屋聡医師の「私のproject50s」

インタビューに答える古屋聡医師

50s(フィフティーズ)といわれる50代の人たちのインサイトに迫るインタビューシリーズ「私のproject50s」を始めます。最初は50代を駆け抜けた医師の古屋聡さん(60)に、50代の生き方、考え方、そしてアクションを振り返ってもらいます。みなさんと一緒に、人生100年時代の折り返しからの50年を「Well-being&Social Good」な人生にすべく、考えていきたいと思います。

古屋 聡(ふるや・さとし)
医師。山梨県富士河口湖町在住。山梨市立牧丘病院で訪問診療を中心にプライマリケアに従事するほか、東日本大震災から台風災害まで被災地の医療をサポートする活動をしている。日常現場でも災害現場でも仲間の保健・医療・介護・福祉関係者とともに力を注ぎ、通称「ふるふる隊」のリーダーとして知られる。実家で暮らし、母親(認知症で要介護5)の介護をしながら、仕事との両立をしていた。妻のいる山梨県内の自宅には時々戻る。子ども3人は東京都内在住。

父ちゃんは母ちゃんを「自分で看たい」という想いを実現/同僚医師ともWin-Winな働き方

50代で実家に戻ってからの介護と仕事のかたち

古屋さんは現在、60歳。かつては山梨市立牧丘病院の院長を務めていたが、現在はそのときから続けている訪問診療や週末の日当直を中心に勤務をしています。なぜ、そのような勤務をしているのか、聞いてきました。

*古屋さんの母親は今年9月にご家族によって看取られました。インタビューは、その前に実施したものです。

古屋さん:僕は高血圧とか、脂質異常症とか、高尿酸血症とかありますよ。だから薬は6種類ぐらい服用しています。もう10年ぐらいは飲んでいます。医師といっても、普通の病気はあるんですよ。

――医師といっても必ずしも健康体であるわけではないのですね。ところで、古屋さんはここ数年、自宅を離れ、実家で過ごしていると聞きました。夫婦別居ですね。

古屋さん:僕の実家が富士河口湖町です。そこから車で1時間ほどのところにある病院に勤務しています。3年前、父ちゃんの介護のために自宅に戻りましたが、1カ月も経たずに亡くなってしまいました。その後、認知症で寝たきりの母ちゃんの介護をしながら仕事をしています。

――お母さんは施設に入所していましたが、ご自宅に戻られたのですね。

古屋さん:施設にいました。父ちゃんは母ちゃんを「自分で看たい」と思っていたんです。ただ、食事介助などに困難があって母親は施設に入所していました。ところが父ちゃんにがんが見つかり、父ちゃんの看取りを考えたとき、母ちゃんと一緒にいないといけないと思いました。それで母ちゃんを自宅に戻して一緒に介護していました。

――実家に単身で戻って、ダブル介護ということですか。

古屋さん:そうです。父ちゃんを看取り、今は母ちゃんがかわいいので介護をしながら仕事をしに行っているという感じです。

――家族はバラバラに過ごしているのですか。

古屋さん:バラバラではありません。子どもたちとは仲良くしています。長女、次女、長男は東京で自立しています。医者には誰もなっていません。妻とは1カ月に1回ぐらい会います。

――ダブル介護にコロナ禍……。働き方も変わりましたか。

古屋さん:コロナで変わったのは働き方です。医師の働き方改革がいわれている中で、病院の同僚の医師と、どのような日時なら被らないで仕事ができるのかということを考えると、僕が土日に勤務することで他の同僚の医師が仕事をしやすくなるんですよ。他の医師は、子どもを育てながら仕事をしていますが、僕の子どもたちは巣立っちゃいましたから。僕が土日に働いて、なおかつ当直もやれば同僚の医師たちは土日にあまり働かなくていいじゃないですか。Win-Winなんですよ。僕は平日に訪問診療のほか、父ちゃん母ちゃんの在宅介護で休みがとれます。

母親の介護をする古屋医師

同じ医療者である夫婦の決意と子どもの感情のギャップ/「僕は20代のとき、彼女を幸せにすると決めた」けど

50代の人生や生き方とコロナ禍の影響

――コロナ禍は50代の人生や生き方に影響を与えましたか。

古屋さん:僕は多少ですが、かっこよく死にたいと思っているんですよ。最初に考えたのが、コロナ禍の初期のころで、感染爆発が起きているクルーズ船や医療機関、介護施設のようなところに行って医療活動をしたいと考えていたんです。

――それは自分自身の中でですか。

古屋さん:はい。自分の病院を守らないといけませんが、私のDNAは「行きたい」となるのです。だから、結構、苦しかったですね。妻は別な病院で看護師をしています。妻の両親を次々と看取ったとき、2人で自分たちのことも確認したんです。DNR(蘇生処置拒否指示)については「(生命維持装置などの機器を)つけなくていい」と。「私もそうだ」っていって、2人は心で握手しました。ただ、最低限は自分の母親を見送ってからと思ってますが。

――同志みたいな感じの夫婦ですね。

古屋さん:だから走れるだけ走って、後はいいなと。妻とは意見が一致したから、ある正月に子どもに言い放ったんです。「お父さんもお母さんも何ひとつしてほしくないので、その通りしてくださいね」って。子どもたちは若干当惑するというか、「お父さん、何いってんのよ」みたいな感じでしたけど、理解はしてくれています。

――理解はするでしょう。今までの古屋さんの行動を見ていたら、逆に古屋さんの行動を止める方がお父さんを苦しませるということが分かると思います。

古屋さん:そうでもないですよ。例えば、我が家の子どもたちは「お父さん、お母さんを大事にしてね」みたいな、どっちが先に逝くかって言ったら「お母さんを先に逝かせてくれ」という感じです。「お母さんが寂しがるから駄目」って感じです。

――古屋さんも100歳まで生きないといけませんね。

古屋さん:なるべく頑張って僕が妻を見送ります。僕は20代のとき、彼女を幸せにすると決めたので、これからも寂しい思いをさせたくないと思ってます。

――夫婦それぞれの生き方を時々確認できるっていいですね。違いがあってもいいし、共感してもいいし。

古屋さん:今、月1回ぐらいしか自宅に帰りませんが、時々LINEでメッセージが届きます。「子どもがこんなこといっているけど、どうですか」とか、「家の中をこういうふうに変えておくけどいいですか」とかいう感じです。僕は「はいはい」と返しています。

気仙沼での活動の様子を表す寄せ書き(提供写真)

東日本大震災での活動が50代の自己表現の場となった/「震災では全ての力を使うことができた」

50代の生き方に影響を与えた災害支援活動

――「50代はこう生きたい」とか「こういう風にしたい」とか、そういうものはありましたか。

古屋さん:僕は、50代は自分の地域医療の成果を見つめ直したり、まとめたりという時期にあたると思っていたんです。ところが、東日本大震災が発生し、そこでの活動が僕の自己表現の場になったんです。僕は、それまで行ってきた地域医療の中で、自分の診療能力、周りの多職種と連携する力、行政機関を活用する力とかたくさんの力を培ってきたと思うんです。震災支援では全ての力を使うことができました。そうしたら僕が普通に自治医大の同窓生として支援に行ったにも関わらず、一定以上の評価を受けるというか、たくさんの波及する効果を得ることができました。

――60歳の古屋さんにとって、50代の人生は震災が大きな影響を与えたのですね。

古屋さん:影響を与えてます。そうじゃなければ、地域医療の後継者どうするかみたいなことの悩みの解決のために動いていたと思います。

仮設住宅を巡回する古屋さんと住民(提供写真)

医療を提供するだけでなく、直接幸せに携わりたい/「弱者を見つけ出してそこのサポートをしたい」

これからのライフプラン

――古屋さんは医師であるとともに、さまざまな社会活動もしています。東日本大震災の直後から宮城県気仙沼市にも通い続けています。地元の多職種の人たちと連携し、地域の高齢社会を見守っています。人生100年と考えたとき、今後40年のライフプランをどう描いているのでしょうか。

古屋さん:医療を提供するだけでなく、直接幸せに携わりたいと考えています。そのため、僕らは「食支援」をやってきました。病気の人も、楽しい食事ができればいいみたいな考えで、ナイスな空間を実現できると楽しいです。そのため、山梨県内に2022年に仲間と合同会社「K&M’sHealth Company」を起業してキッチンカーを購入しようとしています。管理栄養士の方が社長で、もう1人はソムリエです。3人の会社です。合同会社「ふるふる本舗」という会社も地元で立ち上げました。気仙沼での活動を通じて、仲間が栄養パトロールのNPOも立ち上げています。僕はオンラインで健康相談や診療を行うことでバックアップして、地元の看護師らが得意な地域活動の中で、また管理栄養士による栄養パトロールなどでも、食に関わる活動が盛り上がればいいと思っています。

――限られた時間、限られたリソースの中で、年齢に関係なく、ICT(情報通信技術)を使っていかに効率的に行うかという時代ですね。

古屋さん:そんな感じですかね。自分のメインの仕事は訪問診療ですが、「K&M’sHealth Company」のキッチンカーを使って栄養パトロールを行い、弱者を見つけて望まれるそこのサポートをする、みたいな感じです。

古屋さん:でも、メインは医師ですよ。医師の肩書きがあるからこそできることです。

古屋さん:僕らは、自治医大卒業の医師なので、「アクセスが悪いから病院に行けない」という人を見過ごすことが許せなかったんです。災害だけでなく、地域でも起こり得ます。「医療の谷間に灯をともす」という考え方で、医療が足りないところに行くのは当然だというような感じです。被災地でも、自分の身近なところでも、同じなのです。自分の目についたところには行こうと思っています。

若手や中堅を気遣い、自分自身の健康危機が起きやすい世代/しわ寄せがきている50代

アラフィフが気をつけたいこと

――アラフィフが、心身で気をつけた方がいい点は何ですか。

古屋さん:アラフィフは管理職じゃないですか。管理職としての責任を求められながら、働き方改革の波に押されているんですよ。管理職として、若い人や子育て世代にはちゃんとサポートしなきゃいけないといわれていますが、自分のことは置き去りにしてきた世代ですよね。50代の人たちも。だから、自分自身の健康危機が起きやすい世代だと思っています。最初に働き方改革ができるのは、役所のような職場です。「会議は時間内にします」とか。しかし、現場を抱えている方がそう簡単ではありません。「救急車の受け入れ、断っていいんですか」ということになります。そのような職場って、いろいろあると思いますし、しわ寄せが来ている50代でもあると思います。

――自分の健康危機を抱えている人たちが気をつけないといけないポイントは何ですか。

古屋さん:よく寝ることじゃないですか。コロナ前は、どれだけ夜付き合うかということが自慢の種でしたが、今はそうでもないですよね。健康を保つことが大切です。私も、いっておきながら恥ずかしいです。

記事の更新情報はこちらを参考にしてください

*この連載「私のproject50s」は、50代の人たちを中心にしたインタビュー記事で、随時連載していきます。「project50s」のLINE公式アカウントで「お友だち」になると新しい記事や50代のインサイト調査などの記事の公開を知らせるメッセージが届きます。末尾のバナーリンクから「project50s LINE公式アカウント」(@project50s)にお進みください。

「project50s」 の一覧へ

「私のproject50s」 の一覧へ

あわせて読みたい

この記事をシェアする

この特集について

認知症とともにあるウェブメディア