“居場所”は必要? 深い関係でなくてもいい 孤独を救う顔見知りの輪
《介護福祉士でイラストレーターの、高橋恵子さんの絵とことば。じんわり、あなたの心を温めます。》
家族に先立たれてから、ひとりになった70代の僕。
昔から人づきあいが苦手な僕には、仲のいい友人知人もいない。
でも、今もこうして穏やかに暮らせている。
点々と顔見知りが、この町にいるからかもしれない。
特に会話もないが、
今日もマスターの珈琲を、ひとり楽しむ。
「こんばんは」
歩道に立つ女性に、今日も声をかけられ、頭を下げる。
たったこれだけの関係。
でも僕は、彼女の声にいつもぬくもりをもらっている。
もしかしたら彼女も、このゆるやかなつながりに、
なにかをもらっているひとりなのかもしれない。
家に帰り、ひとりの休息。
若いころには、感じられなかった充足感に目をとじる。
——これが、僕なりの居場所の作り方。
「あなたに、居場所はありますか?」
そんな言葉を、近ごろよく聞くようになりました。
どきっ、とします。
なぜなら、家族や職場・あらゆる人間関係にたいして、
「そこであなたは、居場所と呼べるような、
居心地のいい、深いつながりをつくれていますか?」と、
プレッシャーをかけられているような気になるからです。
そうなると私は、なんだか不安になって、
私の居場所を深めていかねば!と、肩に余計な力が入ります。
つまり、居場所の有無を問われるような風潮は、
私にとっては、あまり居心地のいいものではありません。
そんなとき私は、私の周りの
孤独を豊かに過ごす達人たちを思い浮かべて、ひと息吐きます。
居場所と表されるような、固定された場所での関係より、
顔見知りぐらいの気軽な関係を、そこかしこにお持ちの達人たち。
深く近しい関係だけが、孤独をすくうなんて、
勝手な思いこみでしかない、ということに気づかせてくださいます。
会話はなくても、一杯の珈琲。
小さなあいさつ。
自分にとってのたったひとりはいなくても、点在する顔見知り。
そんな、マラソンの給水地点のような関係こそ、
近いからこそこんがらがる時もある人間関係を、
マイペースに歩む糸口になるのではないでしょうか。
《高橋恵子さんの体験をもとにした作品ですが、個人情報への配慮から、登場人物の名前などは変えてあります。》