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「これでよかったのか」悩み苦しむ遺族の思い 認知症と生きるには34

「お母さんもそう判断されたと思いますよ」延命治療の拒否を明示していた女性の家族視点についてです

大阪で「ものわすれクリニック」を営む松本一生さんのコラム「認知症と生きるには」(朝日新聞の医療サイト「アピタル」に掲載中)を、なかまぁるでもご紹介します。今回は、前回ご紹介した延命治療の拒否を明示していたある女性の、家族の視点について考えます。(前回はこちら

前回は、延命治療の拒否を明確に示していたある女性の終末期の話をもとに、当事者の立場を考えたかかわりの重要さを考えました。患者さんの意思を尊重しつつ、医師としての判断を伝える努力を怠らないことが、結果として人権を守ることにもつながる、という内容でした。今回はその人を支える「家族」の視点に立って考えてみましょう。

家族はその人のことを誰よりも理解しているだけでなく、その人を思う存在です。しかしそのような立場だからこそ、いざという時に、どのように認知症の人とかかわって良いのかわからずに苦悶(くもん)していることも多いのです。

家族ゆえの苦労

「家族なのだから、わかっていてあたりまえ」などと言われると判断に迷うことがあります。とくに人生の最終段階ではそうです。家族の代弁によってその人の人生が左右される決断もありますから、家族にかかる精神的負担は大変なものになります。

その人が認知症によって人生の最終段階を「どのようにしたいのか」、言葉に表すことができなくなると、周囲の医療、介護関係者はこう言います。「家族の意見は、(意思表示できない)本人の代弁です。ご家族としてどうしたいか判断してください」と。

聞くほうはその答えによって代弁者であるご家族の意見を尊重した気持ちになれます。しかしそのような決断を迫られた家族の気持ちはどうでしょうか。

今後のコラムで詳しく書きますが、家族の誰かを介護の末に見送った遺族には、ある独特な感情が残っていることがあります。それは「尽きることのない後悔」です。周囲の人は十分な介護をし尽くして、どこに出しても恥ずかしくないような介護と評価できるほどの遺族であるにもかかわらず、「自分のかかわりはあれでよかったのか。判断は許されるのか」、常に自問自答していることが多いのです。無理ないのかもしれません。

たとえば誤嚥性(ごえんせい)肺炎が起きて入院した時に、病院から「今後、どこまで治療行為(点滴や人工呼吸器など)を続けるか」について決断を迫られた家族は、深く悩み苦しみながら答えを出します。しかし必ずしもその決断が良い方向に向くとは限りません。その結果のために自分を責めるかもしれません。

これまでも本人を見送った後に家族とお会いすると、ほとんどの家族が私に聞いてきました。「先生、あの時の私たち家族の決断は、本人にとって本当に正しい判断だったのでしょうか。私たちは本人の気持ちをないがしろにして、家族の要望を優先してしまったんじゃないでしょうか」と。

私にもわかりません。ただの臨床医として診療時間にしかお会いしなかったその人が、本当はどのように思っていたのか、知るすべはありません。でも、長い年月を認知症の人やそのご家族と過ごしていると、見えてくるものがあります。家族同士では改めて口にすることはないけれど、本人も家族もこの道を選ぶとおもわれる決意や決断が、時には予見できることがあります。それが見えた時、私は躊躇(ちゅうちょ)なく家族に対し、(ご本人を推し量った意見として)代弁するようにしています。

「ご本人もこの道を選んだと思います」と。

この人たちにとって最も良い選択肢は何だろうかと、常に考えながら代弁することが臨床医としての私の役目だと考えるからです。

「本人か、家族か」を超えて

長く認知症の人と家族とともに人生を送っていると、よく現場で聞かれる「本人をとるか」それとも「家族の意見を重視するのか」といった葛藤が、私にはほとんど無いことに気づきました。長くその人たちと過ごしていると、自然に「本来、この人たちならこう決定するだろう」という家族全体の傾向が浮かんできます。

たとえば最終段階の決意のような深刻なことでなくても、日常のささいな意見の違いでもよくあることなのですが、散歩などを勧めたときの本人と家族の方向性の違いが出ることなどを例に考えてみましょう。

当事者(患者さん)との付き合いが2年、3年と続き、その人を介護する家族とも年単位でお付き合いをしていると、自然に彼らの考え方や自己決定の方向性が伝わってきます。外部から見ているだけではわからないようなこと、たとえば散歩を拒否し、嫌がっている認知症の人の場合でも、本来はこの人はこのような決断をする人ではないのに、病気の影響で何事もおっくうになっているのだとわかることがあります。

一方で介護家族も、本来なら本人の気持ちを尊重して安心な日々を過ごさせてあげたいと願っているのに、あまりにも本人が頑固に散歩を拒絶すると、「そのような見たこともないその人の姿」にがくぜんとし、絶望感から普段なら思わないような、意地を張った意見が出てしまうこともあります。

そんな時、決して医師が勝手に判断するのではないように注意しながら、家族全体の方向性を後押しすることも大切です。

現場で本人の「嫌だ」という言葉を聞くだけで、「その人の意見だから仕方がない」と介護保険のサービスを諦めてしまうことがあります。しかし、たとえ本人がNOと言っていても、「本来のその人ならどうだろうか」と考えられる付き合いをしていれば、見かけの「NO」に左右されずに判断することができます。認知症の場合はとくにBPSDと言われる行動・心理面での混乱があるために、本人と家族か対立する場面が見られますが、本当にその人や家族を知っていれば、見かけに左右されることなく、しっかりと判断することができます。

そのように考えられると、本人と家族の意見が異なる場合にも「どちらを選ぶか」といった選択に惑わされることがありません。よく知っているこの人ならこう考えるだろうと確信できれば、人生の最終段階における介護や医療のサービスが矛盾することなく行えます。

次回は認知症の人を見送った家族の「遺族ケア」について考えます。

※このコラムは2018年8月23日にアピタルに初出掲載されました

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