33歳当事者の後日談 介護する祖母の思いと愛情 認知症と生きるには32
大阪で「ものわすれクリニック」を営む松本一生さんのコラム「認知症と生きるには」(朝日新聞の医療サイト「アピタル」に掲載中)を、なかまぁるでもご紹介します。今回は、前回ご紹介した33歳で若年性認知症となった男性のこころの話、後日談です。(前回はこちら)
前回のコラムで、若年性のアルツハイマー型認知症(アルツハイマー病)と診断された川上順也さん(仮名、33歳)のことを紹介しました。病気のために、彼女とも別れ、「行動がおかしい」と地域や職場からも見放されそうになっていました。そのうえ、幼い頃に事故で両親を亡くした後、自分を育ててくれた祖母の介護の心配もしていました。絶望のふちに立たされていた彼の話には後日談があります。
彼はそれから8年間、祖母に介護されながら在宅ケアを続けました。そして現在はグループホームに入居しています。
結局、本人が自分から病名を告げると、会社も理解を示しはじめ、人事部長も私の診療所に彼と同伴して来るようになりました。営業の仕事も別の人とペアを組んで続けるように配慮してくれたのです。けれども、結局、相手からクレームが出るようになり、その後は会社の倉庫管理業務に就きました。
彼の自尊感情は傷ついたことだろうと思います。しかし、その後4年間、彼は与えられた仕事を成し遂げ、努力を続けました。
ひとり身になって
ただ一人の家族である祖母は、8年間、彼の介護を続けた後に、ひっそりと自らの人生を閉じました。存命中、懸命にケアを続ける彼女が泣きながら私に訴えたのは、いつも「孫の無念さ」でした。決して自分が老後に孫のケアをしなければならなくなったことを嘆くのではなく、孫が自分の人生を生ききることができなかった無念さを私に訴え続けました。
そんなある日、川上さんと祖母が共に来院して、これから先のケアの在り方をケアマネジャーとともに考える機会がありました。
祖母はその席上で感情が抑えられなくなったのでしょう。自分が不十分なケアしかしてやれないこと、自分の命に限りがあること(以前から持っている大腸がんの腫瘍マーカーの値が上がって来たことなど)を泣きながら話し、「孫のことをふびんに思う」と言いました。
川上さんは毅然とした態度でこう言いました。「この病気になっていろいろなところから見放されそうになったけれど、祖母はいつも自分を見捨てず、天を恨まず、自分の役割を続けてくれました。本当ならただ一人の家族である僕が祖母の余生を幸せに過ごさせたいと願っていたのに、かえってケアをさせることになりました。でも、自分が今でも『生きている』と実感できるのは祖母の愛情があったからです」と。
祖母も「人生の最後の数年は、孫の介護という難しい難題を突き付けられたけれど、私はこの役割を演じ切るために、こうして生かされているのだと思います」と打ち明けました。
その後、私たちは医療というよりも川上さんが一人になってから何ができるかを考えました。祖母が亡くなり、在宅での一人暮らしは無理になったため福祉やケアマネジャーとも相談して、彼が自尊感情を傷つけられないように配慮しながら入居できるところを探しました。
福祉と並んで法律面も課題となりましたが何とか周囲の協力を得て、川上さんは両親が残したある程度の遺産を生かしてグループホームで日々を送っています。でも、彼はケアを受けるだけの人ではありません。自分にできることは進んで行い、彼の明るさは他の入居者や介護職に希望を与えてくれています。
「不足しているところは補ってもらい、自分が提供できるところは人のためにやるんです」と彼はいつも言います。
私の役割は、彼がこの先もその朗らかさを失わず、みんなを照らし続けることができるように、医療者としてかかわり続けることでしょう。
社会の偏見と無理解を超えて
若年性認知症の人を25年担当してきて、私は社会がもっとこのような病気に対する知識を持ってくれれば、偏見がなくなることを実感してきました。
たとえば、アルツハイマー型認知症や、前頭側頭型認知症が若年期に発症した人などの場合、なかなか病名の正確な診断がつくまでに時間がかかります。うつ病や精神疾患などと間違われるのは仕方がないかもしれませんが、なかには「怠けている」という批判や「変わった人だ」などと誤解されて、その人の人格まで否定的にみられることも少なくありません。川上さんの彼女や職場の上司も、もっと理解を深めるチャンスがあれば、川上さんを見放すようなことにはならなかったかもしれません。正しい情報を一人ひとりが持つことこそ、その人や家族が偏見や差別を受けないための力となるのです。
※ 2018年7月26日にアピタルに初出掲載されました