失敗で迷惑かけたくない……退職悩む 【あるある! それってMCI? 認知症?・孤独編】
監修・解説/松本一生 イラスト/あづさゆみか
もの忘れクリニック「松本診療所」(大阪市)の松本一生院長によると、仕事での失敗をきっかけに受診する人たちには共通点があるそうです。「自分がこのまま仕事を続けていると、迷惑をかけてしまうのではないか……」と感じたときに受診した点です。認知機能が低下してきている「軽度認知障害(MCI=Mild Cognitive Impairment)」と診断されたとしても、日常生活に大きな支障がある状態ではありません。再雇用で働く60代社員目線で「MCIあるある」について、松本院長と一緒に考えてみました。こんな光景、みなさんの周囲にもありませんか?
スケジュールを忘れがちになってしまった
62歳。子どもはいない。同い年の妻も元気なうちはとパートで働いている。人生100年時代を楽しむため、そして子どもに頼れない老後のためにも、もう少し働いて資金をためておきたいと考えていたところだった……。
60歳で定年を迎えた後、同じ会社で嘱託として働いていた。給料は下がっても慣れた環境や人間関係のほうがいいと判断したからだ。これまでの経験をいかした仕事ができた。
【嘱託社員(夫)】:あれ、この漢字ってどう書くんだっけ?
オフィスで、古い取引先から届いていた手紙に返信を出そうとしていた。手書きのメッセージを書こうとしたが、漢字が思い出せない。
【嘱託社員(夫)】:最近、もの忘れが少し気になるな……。パソコンでのメールのやり取りが増えたから、字を書く機会が減って漢字が出てこないんだよな。
自分にこう言い聞かせて、スマートフォンで漢字の文字検索をしていると、自席の社内電話が鳴った。受話器をとると、30代の同僚社員からだった。
【同僚社員】:今日って定例会議ですよ。
【嘱託社員(夫)】:えっ! ごめん。ごめん。すぐ行きます。ところで、何の定例会議だっけ?
【同僚社員】:コンシューマー・チームの打ち合わせですよ。地下の窓がない会議室です。みんな待っていますよ。
パソコンやスマートフォンの操作は少し苦手で、手帳でスケジュール管理をしていた。さすがに毎週ある定例会を忘れることはこれまでなかった。冷や汗をかきながら駆け付けたが、ショックだった。
【基本編】軽度認知障害(MCI)について専門家が徹底解説
ネット検索でマイナス思考に
妻が待つ自宅へ向かう帰路。駅のホームで思い切って、スマートフォンで「もの忘れ」「認知症」などといったキーワードで検索してみた。すると、いくつかのセルフチェックが出てきた。恐る恐る試してみた。「おおよその目安で医学的診断に代わるものではありません」と書かれているものの、結果は「認知機能や社会生活に支障が出ている可能性があります」という点数で、受診することを推奨していた。
帰りの電車に乗って座席に座ると、不安に襲われた。そして、学生時代からのつき合いである妻の笑顔が浮かんだ。涙がこぼれ落ちそうだった。
帰宅した夫が、いつもより元気がないことに気づく妻。夕食時、妻がこう切り出してきた。
【妻】:なんか今日元気ないわね。職場で何かあったの?
【嘱託社員(夫)】:いや、別にいつもと同じだよ。
自分の悩みを打ち明けられない。医師の診断を受けたわけではないし、何よりその現実に向き合うことを避けたかった。熟年離婚でもされたら、とマイナス思考になっていた。
あなたのことを思って言い出せなかった
夕食後、リビングでくつろぎながら考えた。子どもがいないこともあり、妻に悩みを打ち明けるしかないと決意した。
【嘱託社員(夫)】:実は俺、軽い認知障害があるかもしれないんだ。MCIっていうらしい。
【妻】:私も最近、ちょっとそのことが気になっていたんだけど……。直接あなたに言うと自尊心を傷つけるかなと思って、言い出せなかったの。
【嘱託社員(夫)】:そうなんだ……。心配かけてごめん……。
【妻】:いいのよ。誰だって老いるんだから。もの忘れがあっても歳相応の程度ならいいじゃない。それにインターネットでの健康チェックは私もよく試すけど目安でしょ。不安があるなら、今度、一緒に「もの忘れ外来」を受診してみましょう!
いつものように、前向きに、明るく振る舞う妻には、感謝しかない。悩みを打ち明けたことで、気持ちも少し晴れた。夫婦や家族で話し合うことの大切さを痛感した。職場にはまだ秘密にして、今度、有給休暇をとって妻と一緒に「もの忘れ外来」を受診しようと決めた。
*おことわり:監修医の松本医師からよく聞く「あるある」エピソードをヒアリングし、それをもとに作成しました。
【松本一生医師のミニ解説】
周囲は当事者が自信を失わないようにエンパワーメントを
MCIは、認知症に比べて日常生活に大きな支障がない程度の認知機能の低下のため、気づきにくいのが現実です。大きな失敗があったり、もの忘れが重なったりするときに気づきやすいです。
また、定年が延長され、60代でも70代でも元気なうちは働いている人が増えてきました。私の経験からいうと、MCIと診断された仕事をしている現役世代の人たちに共通しているのは、「自分がこのまま仕事を続けていると、みんなに迷惑をかけてしまうのかな」といった思いを抱えて受診してきている点です。管理職や経営に関わる人もおり、「立場上、やばい」と焦っている人もいます。
職場の後輩や部下は、認知症やMCIへの理解がなかったり、まさかそのような状態だとは思ってもいなかったりするケースが多く、逆に励ましたり、勇気づけたり、責任を感じる必要はないといったりします。一方、職場での失敗について、当事者も重要でない失敗のケースでは、笑いを織り交ぜたりしてごまかすことがあります。
同じようなことは、働いていない人でも、町内会や趣味の活動などで周囲の人が気づく場合があります。また、職場のように勇気づけたり、励ましたりしてくれる場合も多いでしょう。高齢者の独居世帯も増えてきており、周囲の気づきや配慮、正しい理解や受診が重要になってきます。
繰り返しになりますが、自分自身でMCIと気づける人はそう多くありません。私の診療所を受診してきたMCIの患者に多くみられるのは、物の置き忘れや何かしようと思っても面倒、約束や待ち合わせを忘れる、といったことが度々起こるようになったという点です。ただ、これだけでは受診にはつながらず、受診の直接のきっかけは、笑って済まされないような大きな失敗をしたときや日常生活が困るようになってからです。
だから、MCIといっても、人によって状態はさまざまなのです。また、当事者にとってみれば、認めたくないと思う人もいます。ただ、周囲の人たちにお願いしたいのは、MCIでも認知症でも、失敗などできないことのあら探しをするより、状態の変化に注意しつつ、できないことをサポートするようにしてください。
当事者が自信を失わないようにエンパワーメントしていくことが大事だからです。
- 松本 一生(まつもと・いっしょう)
- 松本診療所理事長・院長、大阪市立大学大学院客員教授、日本認知症ケア学会理事。日本精神神経学会指導医・専門医、日本老年精神医学会指導医・専門医、歯科医師、ケアマネジャー。