妻を殴った!でも記憶がない「僕を縛って」と泣く男性の脳内で何が起きた?
執筆/松本一生、イラスト/稲葉なつき
高阪 健吾さん(72歳): 自分では覚えていないのに、手をあげてしまった
大阪の下町で、松本一生先生が営む「ものわすれクリニック」。今回は、クリニックを訪れた男性が出し抜けに「僕を縛って下さい」と泣いて訴えます。
いったい何が起きたのでしょう。松本先生は男性にどう語りかけるのでしょうか。
泣く妻をみて愕然!
高阪さん、少しは気持ちが晴れましたか。今日は、診療所に飛び込んでくるなり「先生、僕は自分で知らないうちに妻を殴ってしまった。そのことを覚えていないので、これから何をするかわからない。こんな僕を縛ってください」と泣きながら訴えてこられましたね。
何を言っても混乱していたので、少し落ち着いてもらおうと、こちらの部屋を案内しましたが、気がつくともう1時間たっていましたね。
ここでもう一度、今朝起きたことを順序立てて説明していただけますか。
なるほど、あなたがぐっすりと寝たつもりで起きてくると、階下のリビングで奥さんが泣いていたんですね。びっくりしたあなたが「どうした?」と聞くと、奥さんは信じられないといった表情で「昨晩、大声をあげて混乱して、それを止めようとした私を殴ったじゃないですか」と頬のあざを見せながら訴えてきたんですね。
あなた自身にはその記憶がないのですか。あ、腕は痛いんですね。相当強く手を出したようですが、奥さんは先ほど整形外科で診てもらって何もなかったと連絡をくれました。高阪さんがうちの診療所に来ていることを知って、息子さんが会社を早退して、こちらに向かってくれているようです。東京からなのでこちら(大阪)に来られるのは午後になると思います。
精神的な混乱と意識混濁
あなたはかつてボクに言ったことがありましたね。ご自身がまだ学生だった時からあなたを支えて仕事をしてきた奥さんなんですね。「妻のおかげで今の自分がある」と言っていたのをよく覚えています。だからボクも、そして誰一人として高阪さんが奥さんに敵意を持っていたとは思いません。
でもね、高阪さんは側頭葉を中心にして微小脳梗塞(ラクナ梗塞と言います)がたくさんできているため、イライラしやすいという血管性認知症の特徴を持っていることも事実です。自分では理性的にふるまうつもりでも、つい、不安や焦燥感が出てしまう場合や、ちょっとしたことで「イラっと」してしまうこともあります。
そうですか、今回はイラついた記憶がないのですか。もし、イライラが強くなっていれば、認知症による症状の一つとして、ごく少量の安定剤を使って穏やかにすることもできます。それは、決して混乱するから薬で抑えようというのではなく、そのような怒りっぽさ(易怒性:いどせいと読みます)があるのに、そのままにすれば、高阪さんが精神的にイラつくことで、脳に負担がかかったり、脳内の血管が新たな微小梗塞を作ったりすることにつながります。結果として認知症が悪化しますので、それを防ぐために少量の薬で鎮静してもらうことが治療になります。
でも、今回のことは血管性認知症そのものが原因であるというよりも、レビー小体型認知症のレム睡眠時の混乱があるか、それとも認知症に合併しやすい「せん妄」が起きたのかを見極めることが大切かもしれませんね。
レビー小体型認知症は夢を見て寝言を言い、夜中に大声を出すといった特徴があります。確か高阪さんはこちらに来院される前に大病院で放射性同位元素を使って画像診断するための検査をしていましたね。ちょっと5年前のカルテの記録を見てみましょう。あ、やはり大病院での結果では否定されていますね。
そうすると、高阪さんの意識が少し(軽度に)混濁する状態、つまりせん妄がここ数日に起きていた可能性が否定できません。せん疲れが出たときや夜眠れないことなどが重なって起きるもので、せん妄自体は認知症とは別のものです。よく入院後の病院で夜中に混乱する人がいますが、そういった環境変化で起きることもあります。
意識がぼんやりしているために、次の日にその時の記憶がないのが特徴で、一日の中でもせん妄のスイッチが入ったり切れたりすることをくり返すのも特徴です。
自分から消えていく自信
もし、認知症の急激な悪化ではなく、高阪さんの血管性認知症にせん妄が重なったのだとすれば、治療ができますので安心してください。
あなたが今日、訴えてこられた出来事は、物忘れをすること以上にあなたにとってショックだったに違いありません。だって自分が覚えていない時に、奥さんに手をあげてしまうという、考えられないことをした自分がいることを高阪さんは後になって知らされたのですから。
その時の喪失感、愕然とした気持ちから、誰よりもあなた自身が自分を信じられなくなったためですね。自分が何をするかわからないから縛ってほしいといったあなたのつらさは、あなたが実直で誠意ある人だと知っているボクにはよくわかります。
ひとりで悩まず、みんなの力を借りて
だからこそ、ボクはこうして高阪さんに可能性のある病態を伝えています。このような状態は治すことができるからです。それによってあなたが「自分がどうなるのか」と、途方に暮れることなく、ボクといっしょにその症状を治していければ、決して先に見えるのは絶望だけではありません。奥さんにも今回の事態を説明しました。すると何が起きたのかわからなかった奥さんの不安も少し軽くなったようでした。みんなで情報を分け合い、あなたと一緒にやって行きたいと思います。あなたは一人ではありません。
次回は「せん妄はどういう状態なの? 認知症と違うの?」をテーマにします。