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認知症と生きるには

気のせい?家の恥?身近な人ほど理解がない辛さ 認知症と生きるには2

もの忘れを周囲に理解してもらえない女性のイメージ

大阪で「ものわすれクリニック」を営む松本一生さんのコラム「認知症と生きるには」。朝日新聞の医療サイト「アピタル」の人気連載を、なかまぁるでもご紹介します。
今回は、同じ大阪でもずいぶんと遠くの市からクリニックを訪ねてきた女性が松本先生に、ある覚悟を迫ります(前回はこちら)。

父親の急逝により、両親が開設した診療所を急きょ継ぐことになった私のもとを訪れた田中優子さん(仮名)。彼女は「認知症になったのではないか」と思い周囲に相談しますが、理解してもらえませんでした。

そして、その不安な思いを次のように明かしてくれました。

「仲間は私のことを知っているから話にのってくれません。それなら大きな病院で相談にのってもらおうと思いました。少し離れたところにある市民病院を受診して、物忘れが気になることを訴えたところ、医師はいくつかの検査をして、『何も心配ない』とだけ言いました。ほんの10分ほどのいくつかの質問でわかるのでしょうか。不安はより大きくなってしまいました」

「そんな受診をいくつも重ねていたある日、兄から電話がかかってきました。『お前、近所の噂になっているぞ。物忘れをすると、自分から近所で言い続けて、いくつも病院を巡っているらしいじゃないか。俺の耳にも入って来たほどだ。うちの家の名誉をお前ひとりで汚すつもりか。自重しろ』と兄は電話を切りました。その時のさびしさ、寄る辺なさ」

「私のこころと付き合ってくれる覚悟はありますか」

「私は教師一家に生まれて自分も教師としてやっていくことを決意し、人生をその道にささげました。そのために家庭を持つことを選ばず、生涯を仕事にささげてきたつもりです。それが今になって自分の気持ちを受け止めてくれる人がどこにもいないと気づき、愕然(がくぜん)としてしまいました。兄は何度私が胸の苦しさを話しても『気合が入っていれば脳は働く、物忘れなどは頭をいつも使っていると起きるわけがない』と言います。先生、私にはあなたが最後の砦(とりで)なんです。まだ若そうですが(当時の私は37歳でした)、私のこころと付き合ってくれる覚悟はありますか」

こう問われた私は改めて認知症の人の傍(かたわ)らをゆく「伴走者」としての自分が求められていることに気づかされました。もう逃げられません。

認知症に対する私の診療姿勢が形作られた、田中さんとの8年

それから8年間、田中さんは私の診療所に通い続けて天寿を全うしました。亡くなる直前まで一人で生活ができたからです。一般的には認知症になる前段階の「軽度認知障害」というレベルの人は、認知する働きや記憶は低下しても一人で生活できるレベルです。

しかし、認知症になると単身で生活するのがだんだん難しくなります。当時は軽度認知障害という概念はありませんでしたが、田中さんも同じような段階でした。私の診療所を受診し、その後、時間がたつにつれ認知症が進んでいきました。でも、田中さんは亡くなるまで認知症とともに生き、そして旅立っていきました。この8年間に私の認知症に対する診療の姿勢が形作られたと今でも思っています。

元気づけようと思って掛けてくれた言葉に、当事者は辛さを感じることも

自分の物忘れ、これまでとは異なる点に気づいた人は、とてつもない不安を持つ場合があります。田中さんがその典型例のような人でした。中には当初、自分の変化に気づかず、家族や周囲の人が気づいているのに自分自身はそのことを認めない人もいます。わたしたちは田中さんのような心情になっている人と向き合うとき、無意識に「その人を元気づけよう」として次のような言葉を口にしてしまいがちです。

「あなたに限ってそんなことはない。気のせい、気のせい、誰にでもあるわよ」

この時、田中さんのように悩んでいる人にとって、その言葉は力づけにはならないと彼女は教えてくれました。そんなふうに言われると、勇気を出して自分の胸の内を告げたのに(吐露したのに)、なんとなく目の前に戸板を立てられてしまって、それ以降の胸の内を出せなくなってしまったと彼女は言いました。

当時は「生産性のある人にだけ価値がある」と考え、結果ばかり追いがちな時代でした。今は不都合があっても、「それで良し」と言える時代になったと思いたいのですが、まだまだ世間は認知症という病気に対しては寛容になっていません。

あのころと比べると確かに「認知症は病気である」という認識は広がったと思います。田中さんのお兄さんのように「気合が入っていないからだ」という認識は減ったかな、とも思います。でも、「誰でもなる可能性がある病気」だからと言って、その人が最初に受けるこころの衝撃や絶望感を軽く考えすぎることにも抵抗感があります。

認知症のつらさと向き合いながら、それでも認知症と生きる全ての人のために

数年前ですが、認知症の人のこころをテーマにした講演会をしたところ、その場に来ていた医師から「先生のテーマはあまりにも暗すぎる。今は介護保険もあって、早期に診断して薬も使えば何とでもなるじゃないですか。病気が進めば施設もたくさんあります。何もこころをテーマにして認知症を複雑にしなくても、ただの病気でいいじゃないですか。明るくいきましょうよ、先生」と発言されたことがありました。

認知症を病気としてとらえ、決して絶望視しない、良い時代になりつつあるなと思う反面、この医師の発言には抵抗がありました。認知症のつらさと向き合いながら、それでも認知症と生きる人、その家族、それを受け入れる地域、全ての人のために、これからのコラムを書いていきたいと思います。テーマの軸は「それでも生きる意味」。田中さんの言葉が私を育ててくれたように、このコラムが皆さんのこころの明かりになることを願っています。

※田中さんを診療していた当時、認知症は旧病名で呼ばれていましたが、このコラムでは「認知症」と表現しています。

※このコラムは2017年4月27日にアピタルに初出掲載されました。

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