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認知症と生きるには

ある女性との出会いが、専門医の私をつくった 認知症と生きるには1

認知症と生きるには1

新連載「診察室からエールを~ものわすれが気になるあなたへ」を担当する松本一生先生は、朝日新聞の医療サイト「アピタル」にもコラムを好評連載中です。そのコラム「認知症と生きるには」をなかまぁるでもお読みいただけることになりました。

みなさん初めまして。大阪の下町で認知症を専門に診療をしている松本一生と申します。私の出身は精神科ですから、おそらく精神医学を学んできた者の目線で認知症という病気をとらえているのだと思いますが、この病気は医学としての診断や治療のみならず、生活に重点を置いたサポートが必要であると思っています。

私が認知症の診療を始めたのがおよそ25年前です。四半世紀前に自分の強い意志をもって「認知症専門の開業医を目指す」と決意したのなら素晴らしいのですが、実はそうではありません。私の両親が66年前に開設した診療所を、父が急逝したために急いで大学院から戻って継いだというのが本当の理由です。

父が歯科医師として、母が内科・眼科医として地域の人々に支えられてきた診療所の院長・理事長であった父は、ある日の夜間診療を終えて夕食を済ませたあと、ほんの数分、「気分が悪い」とだけ言い残して心筋梗塞で亡くなりました。内科医の母に看取られて本望だったかもしれませんが、慌てたのは私です。父の後を継ぐべく歯科医師になり、その後にもう一度医師を目指して医科大学を終え、大学院に入ったところでの出来事です。考える暇もなく診療所を継ぎ、考えるゆとりもなく、自分が診ることができる「認知症」を主とした精神科を始めることになりました。

かつて「忌まわしい病」という誤解があった

当時は認知症について今よりもっと根強い誤解がありました。「うちの家系には認知症などという忌まわしい病気になる者はいない」という誤解、「認知症なんか になるなんて、本人が怠けているからだ」などと、今考えるととんでもない根性論のような病気へのイメージがありました。いや、そもそも「病気である」というしっかりとした認識さえなかった時代であったと思います。

そのような時代に、認知症は病気であり、完治することはないけれど症状を少しでも軽くして、その人が本来持っている命、生きる力を少しでも伸ばそう、と考えた精神医学の先達がいました。決して多くはありません。認知症の医療は私が精神科医になったころでもまだ主流ではなく、少数派だったからです。でも、そのような先輩たちを見習いながら、自分も町中で懸命に生きる認知症の人と、その人を支える家族と共に人生を過ごすことに決めました。このコラムと同じ「認知症と生きるには」をテーマにした私の医師としての人生の始まりです。 

わざわざ遠くのクリニックまで通う女性

開業医として、また一方では診療所からほど近い母校で大学院生をつづけて2年ほどたったころ、その人はやってきました。田中優子さん(仮名)です。初診の手続きを終えたカルテが手元に届き、見るとずいぶん遠くから来院したことがわかり驚きました。大阪府の南のほうの市から、わざわざ北東部の下町にある当院まで来ていましたから。なかなか本音を出さない人でしたが、何度か来院するうちに少しずつ本音を語りだしました。

70歳を少し過ぎた彼女は「先生は精神科医ですよね。精神科医なら私の秘密は守ってくれますね」と言い出しました。精神科医に限らず医師なら誰もみな患者さんとして来院した人の秘密を守ります。この守秘こそ最も大切なことであると告げると、少しほっとした表情で次のような言葉が出るようになりました 。

教師一家に生まれて

「私の家は祖父母も両親も教師で、兄や私も当然のように教師になる道を選び、その地域の学校で教えてきました。私も中学校の教頭まで勤めて定年になりましたが、その後も地域社会の役に立ちたいと願って、その地区のボランティア会の会長としてこの10年を務めてきました。

そんな私が自分の間違いの多さに気づいたのが3年ほど前です。今どこで仲間が活動しているか、わかっているはずだったのに何度も間違えるようになってしまいました。はじめは『気のせいかな』、『疲れているからだろう』などと思って深く考えないようにしていましたが、配置した仲間を3回繰り返して間違え、その人から『いい加減な配置をするのはやめてほしい』とクレームが入った時に、はっきりと自分でも気が付きました。

「あなたがボケなら、私たちは大ボケよ」

ところがそのことを周囲の仲間に話しても取り合ってくれません。『田中会長ほどの人がそんなミスをするはずがありません』と言われ、周囲の仲間は言いました。『あなたがボケなら、私たちは大ボケよ』、その場にいた全員が爆笑しました。きっと私のことを気遣ってみんなは笑ってくれているのだ、などと自分だけが被害感情を持っていたのかもしれません。でも、その時の私はとてつもない『寄る辺なさ』を感じました。身の置き所のない、不安といったものでした」

この田中さんの告白を聞いたとき、私はまだ認知症の人にこれほどの悩みやこころのつらさがあるということを理解できていませんでした。彼女と出会い、その後8年にわたり診察を続けたことが、認知症の(こころの)専門医としていまある私の姿勢をつくることになったのです 。

※このコラムは2017年4月13日にアピタルに初出掲載されました。

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