編集長インタビュー

介護せずに済むのが究極の介護 認知症ケアのパイオニア中島紀惠子さん後編

中島紀惠子さんと冨岡史穂編集長

「認知症ケア」の生みの親であり、「老年看護」を築いてきた功労者として知られる中島紀惠子さん。なかまぁる・冨岡史穂編集長が前回に引き続き「ケアとは何か」を聞くと、穏やかに、けれど力強く話してくださいました。
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よく異議申し立てをする子どもでした(笑)

冨岡 先生はそもそもなぜ、看護の道を志したんですか?

中島 私は看護師になることを志していたわけではなかった。周りにもいなかったし、ナースのイメージがありませんでした。ただ、子どもの頃からなんとなく、皆がやっていないことをやりたいとは思っていました。

冨岡 どんなお子さんだったのでしょう?

中島 よく「異議申し立て」をする子でした(笑)。元気な子でしたよ。
うちの親は、女性に学歴は必要ないという風潮に批判的でした。母親はよく「女性もちゃんと働かないとダメよ」と言っていました。

冨岡 進歩的なご両親だったんですね。

中島 とはいえ、私が入学した昭和29年当時の女性が就ける職業は、教職か看護職ぐらい。私はこれらの職業や教育がどうなっているのかをまるで知らなかったのに看護系の大学に行ったのですから、おかしな話です。今のように情報のない時代でしたし、女性が大学を目指す割合はとても少ない時代でした。

冨岡 なぜ看護の大学に?

中島 看護婦になるイメージはなかったものの、『蛍雪時代』を見たら「看護のリーダーになれる人材を養成することを目指して作られた最初の大学」と書いてあったから。(その時点では)リーダーになる道と職業人として看護資格を持つことがひとつの道であると結びついていなかったのですから、おめでたい話です。でも看護系大学を選んで幸運でした。

デイケアは高齢者と家族、両方のためのサービス

冨岡 老年看護、あるいは高齢者をご自身のテーマにすると決められたきっかけは何だったのでしょう?

中島 在学中から地域や家族の健康に関心があったんです。北海道の辺地の保健師を希望して就職運動をしてきました。1960~70年代は、農漁村地域や家族のあり方が大きく変わり、都市の住まい環境も大きく変化した時代でした。
だから、地域の人々の住まい方が家族の健康に及ぼす影響とか、引き取り同居がどこからきてどんな問題が起きたとか、家族がどんなふうに多様化しながら縮小していくかといったことを、他分野の研究者と一緒に調査してきました。そこからですかね。高齢者や認知症の人と家族に関わるようになったのは。

冨岡 先生から見て、家族と暮らす高齢者と施設の高齢者とで違うところはありましたか?

中島紀惠子さん

中島 家庭にいる地域高齢者の姿も、家族の形も実に多様です。介護家族の格差も大きいです。でも介護は暮らしの一部ですから、思うようにならないことも互いに呑み込んで我慢するというか。
地域という場に身を置いて、コミュニティーに参加することは自由にできますよね。元気な高齢者の集いもいろんな形で活発でした。
でも(その頃の)施設は家族から老人を預かるところでした。無理やり入所させられた人も居る。そうでなくとも老人自身が、これまでの人生や暮らしにけりをつける覚悟で、親交のある仲間たちとの絆を絶つような覚悟が必要な時代でもありました。訪れる友人、知人もほとんどいない。そういう感じでしたね。だから入所時にすでに意欲を無くし、表情が少なく、不活発になってしまう人がいる。

認知症の人はそこがどこなのか、何をする場所なのか途方に暮れ、怯え、その表現の様子に不適当な介護を受けるということがあるわけで、それがつらかったですね。なので、デイケアを作ったりグループホームを考えたりしてきたの。当時はまだデイケアの発想がなかったから。介護家族が旅行に出かける際に預かりますよ、というデイサービスはありましたけどね。私たちのデイケアは、認知症高齢者の不活発な状態が回復する、人間性を取り戻す、そして家族も社会生活を取り戻すことを目的としたサービスの仕組みを作ってケアしていました。

1にも2にも「観察すること」

冨岡 先生が看護をするうえで意識してこられたことは何ですか?

中島 1にも2にも「観察すること」ね。その人が環境とどう付き合っているか、今日は調子が悪いけど昨日はどうだったか、とか。観察すると、聞くことや、するべきことが選択できます。体の状態は生活との関係が深いのです。観察して経過を振り返ることで、いま何が起きているか、起きようとしているかを予測できることも少なくないのです。認知力がどのように低下しているか、また、失った能力を何の能力で補えるのか、みんなで議論できるわけです。

冨岡 観察していないと気づかない。

中島 たとえば目が見えていないとか、耳が聞こえていないという人は意外に多い。ご飯を食べていないからと介助しようとする前に、「もしかしたらものがきちんと見えていないんじゃないかしら?」と観察すること。看護は、見たものを状況全体から論理的に説明し、ケアという行為に落とし込んでいくような活動です。

冨岡 確かに、テーブルの上のものが見えていなければ食べられませんよね。

中島 おかずが見えないから食べないのか、手が届かないから食べないのか。観察をしつつ、何とか一人で食べられる手立てを探索していくことが大切なんです。認知症の病的側面ではなく、その人の苦労している側面に目を向けるということです。

究極の介護とは、いかに介護しないで済むか

冨岡 「食べさせる」ことがケアなのではなく、その人が「食べられる」よう実験してみたり、観察したりすることがケアなんですね。

冨岡史穂編集長

中島 そうです。その人のどこに自立した自助能力があるかを探す。それが観察。そのうえで手助けの方法を探すわけです。

冨岡 いかに手を出さずにいるか。実はそれこそが良いケアであり、読解力のあるケアということですね。残存能力を見つけて評価することこそがケアの仕事。

中島 それがあって人権です。いわゆるReasonable accommodation、日本語だと合理的配慮(編集部注:障がい者から助けを求められた際、負担になりすぎない範囲で必要な便宜を図ること)ね。究極の介護とは、いかに介護しないで済むかということ。そしてそれは、私たちがその人の力をどれくらい見つけられるかにかかっています。見つけて、最小限のすべきことを考える。段取りをその人と一緒に考えるのです。

認知症の人も学習する

冨岡 この30年で、認知症のケアは大きく変わりましたか?

中島 変わりましたね。おむつパンツができたりして、お互いにつらい仕事が本当に減りました。認知症になっても人は学習する、ということもわかりました。認知症の人も、一度成功すると対応力がつくんですね。「この時にはこうだ」と失敗からも学習している。
グループホームに入って3カ月くらい同じ生活の場にいると、かなり重度な認知症の人でも、トイレや自身の居室をきれいにするようになります。女性に「口紅をつけますか?」と聞くと、喜々としてつけますしね。忘れていたものを取り戻すお年寄りがいっぱい出てきた。
記憶障害があっても高齢であっても人間なんだから。一人ひとり経験も能力もあるし、しかも、みな違う。ケアは、そういうことを互いに探し合い伝え合い、理解し合う関係をいうのでしょうね。

冨岡 その環境の中での学習ですね。

中島 認知症の重症度の基準については、現在の指標でいいのかどうか、よほど注意を払う必要があるように思います。そういう意味でも長谷川先生のテレビ映像はよかったですね(編集部注:2020年1月に放送された、NHKスペシャル「認知症の第一人者が認知症になった」で、自らが認知症であることを公表した長谷川和夫さんが取材に応じ、心境を語った)。

格好良く認知症で死ぬ、という選択

冨岡 先生はこの先、認知症に対するスティグマ(社会的な弱者に対する、偏見や差別などのネガティブな感情)は解消されると思いますか?

中島 無理でしょう。スティグマは常にありますし、どこにでも潜んでいます。ただ、それに気づき恥じる機会が増えてきたのも事実。スティグマと闘う認知症の人もたくさん出てきています。

冨岡 医療についてはどうでしょう?

中島 医療の世界は固いからね……組織体系も専門職としての研鑽もしっかりしている。だから私たちは安心して治療に身を委ねられる。患者に「どうしたらいいんですか」と聞かれたら、何か答えないと気が済まないのよ。専門家は、「分からない」と答えたり一緒に考えたりしようという態度学習が、どちらかというと下手ですよね。
この間、なんかの週刊誌で“医師にも分からない介護”という見出しを見ました。びっくりした。医師に分からない介護はないといっているのと等しい訳で。専門家の誰もがオールマイティではあり得ない時代です。

中島紀惠子さんと冨岡史穂編集長

短期に濃厚で効果的な回復を図るという現代の医療システムの中で、仮にどんな病も薬で治る時代になったとして、果たして認知症の医療にはそれが有効か……。80歳、90歳の人の医療はそれでいいのかどうか。少なくとも高齢者は、自分で、自分の人生にふさわしい医療を選択できる、そういう機会がたっぷり与えられる仕組みが欲しいですね。大事なことだと思います。

冨岡 本人たちが判断するのですか?

中島 そうです。私たち高齢者は「自分の人生の終え方をどうしたら格好良くできるか」についての訓練をされていません。でも今後は、自分の人生をどうするか、自身で判断することが欠かせませんし、そういう機会が増えると思います。

冨岡 終わり方を自分で決める、自分でデザインするということでしょうか?

中島 格好良く認知症で死ぬ、というのも選択じゃないですか。いつどこで、誰がどのように……という課題はありますが、高齢者ケア施設やグループホームなどでは、そこで看取られることを選択できる所も増えていると思います。認知症だからって、何もわからない人じゃないんだもの。独り暮らしの人も増えることだし。

冨岡 みんながそう考える社会になれば、スティグマもだいぶ減るでしょうね。

中島 究極的には、可能なかぎり重症化させないケア、そして「私は認知症だから何もわかりません」という自分放棄をしないケアの中で、「これはできるけどこれはできない」とはっきり言える高齢者や認知症の当事者?(人?)になってほしいと私は思っています。そういう時代がやってきているように感じています。

ケアとは、おそるおそるサポートすること

冨岡 老年看護をライフワークとしてこられた先生が、老いる当事者となられた今、あらためて「自分は正しかった」と思うことはありますか? また、ケアはどうあるべきだと思いますか?

中島 正しかったというより、「間違ったものの見かたをしてはいなかった」とは言えるかな。老いていっそう、ケアの本質は「セルフケア」だとわかった。セルフケアが「自立する」生活を実現するということがね。

冨岡 やはり自立が基本なんですね。

中島 私はね。でも一般論としても、その人の“欲しい居場所”なしにセルフケアは成り立たないし、求める自立はできない。また、本人のセルフケアの学習の程度と自立支援といわれる他者のケアがマッチしないと、“不合理な配慮”でしかないという事態を招くということもある。かといって、自分のセルフケアの何かを他人に委ねて、100%補ってもらえるような幻想を抱いている高齢者はいないと思う。
だからこそケアする側は、ケアは本来その人のためにある、という「当事者」への視点が大事なのです。さらに付け加えると、ケアは本人の強い意志を読み取りながら、おそるおそるサポートすることである、ということですね。決してしゃしゃり出るものではない。

冨岡 「おそるおそる」ですか、なるほど。

中島 認知症は、人間性を一気にはく奪される可能性が大きく、悲哀を伴う病です。それだけに、我々支援する側もジャーナリストの方も、懸命に、絶え間なく、本人主義ということを伝えていかないといけないでしょうね。

冨岡 重く受け止めます。今日は貴重なお話をありがとうございました。

※前編から読む

中島紀惠子(なかじま・きえこ)
元日本看護協会看護研修学校長、北海道医療大名誉教授。1962年国立公衆衛生院保健指導学科修了後、北海道で保健師として活動した後、大阪府立公衆衛生学院、千葉大、日本社会事業大、北海道医療大で指導。同大大学院看護福祉学部研究科長、新潟県立看護大学学長を歴任した。「認知症ケア」「老年看護」の概念を生み出した教育研究のパイオニア。当事者の自立を主軸とした支援を唱え「デイケア」「グループホーム」運営にも取り組んだ。福祉分野の多くの学会で理事を務め、今日もなお研究を続けている。「老年看護学」(医学書院)、「新版、認知症の人々の看護」(医歯薬出版)など著書多数。
冨岡史穂(とみおか・しほ)
なかまぁる編集長。1974年生まれ。99年朝日新聞社入社。宇都宮、長野での記者「修行」を経て、04年から主に基礎科学、医療分野を取材。朝刊連載「患者を生きる」などを担当した。気がつけばヒマラヤ山脈、なぜか炎天の離島と、体力系の取材経験もわりと多い。

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