無表情に見える夫だけれど 妻だからこそ気づく 変わらぬ内面の豊かさ
《介護福祉士でイラストレーターの、高橋恵子さんの絵とことば。じんわり、あなたの心を温めます。》
「行ってらっしゃい」と、
認知症がある夫を今日もデイサービスに送りだす。
ここ数年で夫の認知症は、
寄る年波と共に、ゆるやかに進んだ。
まるくなった背中に、ふと、
在りし日の夫を思い出した。
認知症がこんなに進む前、
夫はおしゃべりな人だった。
気持ちがすぐ、顔に出る人だった。
でも今は、おしゃべりも表情もなくなり、
動きも緩慢になって、
無感情に見えるほど。
かつての夫は、もう消えてしまったの?
でも、長年連れ添った私は、
日々なんども思い知らされる。
夫の豊かな内面は、そのままあると。
認知症はこの人から、感情の表現手段を減らしたけれど、
しずかに手を振る夫のまなざしは、
変わらず、あの日のまま。
その人の内面がどんなに豊かであっても、
無表情で無口だったり、
なんだか動きも緩慢だったりすると、
なんとなく避けたくはならないでしょうか?
それは私の場合「その人を理解することが自分には難しそうで、モヤモヤする」というような理由からだったりします。
認知症が進行されたご本人は、
言葉が出づらくなったり、表情が乏しくなったりして、
周囲からはぼんやりとした様子に見えることがあります。
そんな状態にある人を「なにもわからなくなった人」と、勘違いしてしまう風潮が世間にはまだまだあります。
けれど、もしかしたらそれは、誰にだってある、
「自分にとっては理解しづらい他者へのモヤモヤ」を収めるための、極端な見解かもしれません。
というのも、日常的にそばにいるご家族は、
認知症が進行したご本人と接していて、
「外に向けた表現手段が減っただけで、中身は変わっていない」と感じられる瞬間が、日々あるからです。
ただその理解の仕方は、当事者・家族間でしかわかり得ない、感覚的で非言語的な場合も多く、
周りの人には伝えづらいのが歯がゆいところなのですが…。
私は長年、認知症がある方々と絵を描いています。
「認知症になった母は、もう別人」と思いこまれたご家族が、
ご本人の絵や、その描画過程の様子を知って、
「なんらその内面が変わっていなかった」と驚かれるようなことは今まで何度もありました。
わかりやすい、表情や言葉だけではなく、
視線の揺れや声の調子など、今現在のその人が発している微細な様子のなかにこそ、
その人らしさに触れられるヒントがあるのかもしれません。
《高橋恵子さんの体験をもとにした作品ですが、個人情報への配慮から、登場人物の名前などは変えてあります。》