認知症を理由に離婚 “卒業”に向けた行った活動とは 認知症と生きるには45
大阪で「ものわすれクリニック」を営む松本一生さんのコラム「認知症と生きるには」(朝日新聞の医療サイト「アピタル」に掲載中)を、なかまぁるでもご紹介します。
1995年に阪神淡路大震災が起きて、日本がこれまで考えられていたよりもさまざまな課題を感じ始めた頃、認知症に対する社会の理解はまだまだ進んでいませんでした。周囲の偏見から、離婚を迫られ家族と引き離されてしまった人もいます。今回、ご紹介するのは96~97年ごろの話です。
今でも残っているかと思いますが、当時はより一層、「認知症になると何もできなくなる」病気であるかのように誤解されていました。そのため、私が、内科医だった母(故人)とともに「老人デイケア」を始めた頃は、周囲の人から「あそこに行くようになったら終わりだ」などと言われて悔しい思いをしたこともありました。ある認知症当事者は「町で知人にあったら、私の病気を知っているその人は気の毒そうに目を伏せる」と悲しげに言っていた記憶があります。
今でこそ私はどのような市民講演会の講師を務めるときでも、「認知症と言う病気はまだ難しい病気ではあるけれど、なったら終わりではなく、なってからが勝負だ」と言い続けています。病気ですから予防に心掛けて、ならずに済むようにするのが第1に大切です。けれど、たとえなったとしても、そこで絶望するのではなく、なってから少しでも良い状態を続けることで、地域の人や家族に希望を与え続けることができるのを目の当たりにした経験があるからです。
今日はそのきっかけになった内山京子さんという女性(仮名、49歳)の話をしましょう。
家族から引き離されて
はじめて彼女が私の診療所に来院したのは95年ごろだったと思います。大都市を代表する大きな病院を受診して、その外来で検査を受け、告知希望だった彼女の担当医は何のためらいもなく「アルツハイマー型認知症」それも「中等度に近づいているから、できることはもうあまりない。治療方法もないので(まだ、抗認知症薬が出始める前でした)、残りの人生を好きなようにして送るように。おそらく来年にはあなたは自分が誰かわからなくなっていると思う」と告げたのでした。
「なによ、それ」と思った、と彼女は半年ほど後、うちの診療所を受診した時、私に言いました。
「医者にとっては1人の患者かもしれないし、私の症状はすでに進んでいるからそういわれても仕方がないかもしれないけれど『まるで石っころに言うみたいに言わないで』と思ったわよ」
そして当時はまだ少なかった「ものわすれ外来」をしている私の診療所にたどり着いたのでした。
今でこそ当院はホームページを作っていますが、それは2016年からのこと、当時は看板も含めどこにも広告を出していませんでしたので、来院までには苦労していろいろな人に聞いてこられたのでしょう。
当時は私も認知症の人とのさまざまな出会いや、そこからの可能性を模索している時期でしたから、彼女が「ただ、治療を受ける時間を過ごすだけではなく、彼女が何かやりたいと思っていること」をひしひしと感じました。
当時の偏見ゆえ、彼女はつらい思いもしていました。20年連れ添った夫はやさしい人でしたが、老舗の和菓子店の跡取りだったため、その両親が結婚の継続に難色を示し、離婚させられたあげく、大学生だった2人の息子も夫も店も、義理の両親が奪ってしまいました。「伝統あるわが家にはふさわしくない嫁」として離縁させられてしまったのでした。
夫も息子もやさしい人でしたから、家から離れたところでときどき京子さんには会っていましたが、彼女からすれば、夫と息子2人が抵抗してくれなかったことで、自分など必要ない存在になってしまったかのようにつらく感じる日々を送ったと聞きました。
ボランティアの会を設立
しかし彼女が私の診療所に通うようになって驚いたのは、バイタリティーの強さでした。しかも、「病気の部分で私にはいろいろと不都合化なこともあるかもしれませんが、先生、私、だからと言って不幸に人生を送りたくないです」と彼女はきっぱり言いました。
それから半年、彼女が中心となって作り上げたのが「認知症の当事者であるわれわれが、それでもできる知的ボランティアの会」の設立でした。
周囲の偏見が強い時代に、認知症と言う診断が下っているだけで「何もできない人、何もわからなくなる病気」と誤解されていたにもかかわらず、京子さんは何人か、私の患者さんに声をかけて知的ボランティアの会を立ち上げました。参加者のレベルが異なれば、思うような活動ができないためでしょうか、かなり慎重に参加者を(人権にも配慮しながら)選んだようですが、結果として5人ほどのグループができました。
こんなにできることがある!
彼らが目指したのは知的ボランティアの会でした。京子さんは「公園のごみを拾うことや清掃のボランティアにも大きな価値がある。でも私たちは認知症になっていても、それでも残る知的な面をボランティア活動の原動力にしたい」と告げてきました。
そしてこちらが驚くほどの活動力をもって、地域で引きこもっている高齢者の元に出かけて楽器を演奏することや、見守りの活動を続けました。私自身がその時、とても驚き、そして気づきました。認知症の専門医をしている自分でも、いつの間にか認知症の当事者にはできることに限りが出てくる。知的ボランティアと言っても形だけのものになるだろうと感じていたことに。自分が今思い出しても恥ずかしい偏見を持っていたのです。
その後の活動を通じて地域の独居、孤立した高齢者が彼らの来訪を待ってくれるほどになりました。地域包括ケアのさきがけができたかな、と思います。
やがて来る「卒業」のために
しかし輝ける時は永遠には続きません。その後、京子さんや私が直面したのは、グループから旅立つときが来るという現実です。それも各自の認知症の進行具合の差によって、ひとり、またひとりとボランティア会に参加できなくなる人が出てきます。
そしてついに京子さんも、その時を迎えました。でも、彼女はそれを以前から準備していました。「いよいよ、その時期になりました。次の段階に向けて卒業します」と彼女は言い、地域のデイサービスに移っていきました。しかしそれまでの約10年、彼女は「自分のとき」を生きることができたと思います。
今では認知症カフェがあり、早期から気軽に参加でき、デイサービスも機能特化型や男性に受けそうなものなど、多様性が出てきました。それでもなお、自負心が強く「私はあのような人々とは違うから行かない。あそこは私が行くようなところではない」と自分の居場所を見つけられない多くの認知症当事者がいます。
今後も私は、より多くの選択肢の中で、当事者が自分のレベルや希望に沿った「やりがい」を得られる社会サービスの利用にこそ、治療的な意味合いがあることを社会に向かって主張し続けます。
※このコラムは2019年3月1日に、アピタルに初出掲載されました。