介護17年は毒舌漫才。母はイカ、娘はタコでイチ、ニッ、サン【認知症エッセイ】
なかまぁるでは、認知症フレンドリーな取り組みが社会に広がることを願い、今年も「なかまぁるShort Film Contest 2020」を開催しました。今回は新しい試みとして、ショートストーリー部門「SOMPO認知症エッセイコンテスト」を新設しました。認知症の介護のエピソードや親子の絆、感謝の気持ちなど、1329本の応募作品が寄せられました。その中から、編集部イチオシの12作品をお届けします。また、作品は原文の通り掲載しています。
■『つらさを毒舌漫才にかえて』飯森美代子
母は76歳のとき脳梗塞に倒れ、左半身まひになった。当時まだ介護保険制度はなく、33歳の私は仕事を辞め、在宅で母の介護を始めた。介護生活は17年に及び、6年前にみとった。
私は小学6年のときから母と二人暮らしだった。私はわがままで、母に歯向かってばかりいた。だから介護が始まったときは心を入れ替え、今度こそ恩返しをしようと決めたのだ。けれど、気がつくと不平不満ばかり口にしていた。「私の人生は母によって変えられてしまった」という思いが胸の内にたぎっていたからだ。
母は認知症が発症するまで私の鬱憤を聞き流し、決して相手にしなかった。ところが認知症になると鎧を脱ぎ捨てるように心を解放し、思いの丈を吐き出すようになった。一たび言い合いが始まると、歯止めが効かない。親子だから言いたい放題。毎晩布団の中で猛省した。
いつ頃からか、母は動きが悪くなった自身の体に号令をかけ、「イチ、ニッ、サン、イチ、ニッ、サン」と言い始め、それが口ぐせになっていた。
その後、母は転びやすくなり、1人で歩くことに臆病になってしまった。私が後ろから見守って歩くのだが、やはり怖いらしく、危なくないか、と私に確認するため「いいか、いいか」と聞くようになった。それがいつの間にか短く歯切れの良い「いか、いか」に変化し、「イチ、ニッ、サン、いか、いか」になった。そこで私はひらめいた。「いか」に対抗できるものは「たこ」だと思いつき、「大丈夫だよ」の代わりに「シー、ゴー、ロク、たこ、たこ」と答えたのだ。
これがターニングポイントだった。介護の辛さを笑いにすれば、気持ちが楽になることを知った。それからだ。親子毒舌漫才のような会話を面白がるようになったのは…。
朝、母の髪を整えるとき「あれまぁ、また一段と髪の毛が危機的状態になってきたねぇ」と、私が言うと「お前が頭洗うたび毟るからだ」と言い返した。夜、ベッドに入ると母は「ありがとうございました」と言った。「ございました、ということは、もう死ぬということだね。最期のあいさつか」「バカ言え。そうそうくたばってたまるか」「えー、まだ生きるの」「当たり前だ。文句あるか」と一日中にぎやかだった。
晩年の母は、夢と現実を頻繁に行き交うようになった。夜になると、ベッドで大騒ぎした。慌てて行くと「火事だー」と叫んでいる。私は母の肩を叩き、耳元で言う。「どこが火事なの」。母がパッと目を見開く。「こっちへ行こうとしたら、家事だって」「誰が言ったの」「みよちゃん」「えー、私言わないよ」「じゃあ、あの人だ」「あの人って誰」「カンイチさん」「カンイチさんて誰」「誰だっけ、忘れた。トヨキさんかや」「トヨキさんて誰」。一瞬ポカンとする母。そして、「あーボケちゃったー。イチ、ニッ、サン、イチ、ニッ、サン…」。あとは何を聞いても聞こえないふり。都合が悪いということは何となく分かるらしい。「カンイチさん」と言い、「トヨキさん」と言い、きっと母が若い頃に付き合った彼氏に違いない、とピンときた。
また、あるときは母の大騒ぎに胸がキュンとすることもあった。「みよちゃん、みよちゃん、大変だー」の決まり文句に駆けつけると「お尻からオムツがでてきたー」と叫ぶ。「えっ、お尻の穴からこんな大きいオムツが出てくるんだー」。ジェスチャー付きで叫び返す私に、一瞬ポカンとする母。あれ、また余計なことを言ったかなと感じたらしい。次の瞬間、何事もなかったように涼しい顔で「イチ、ニッ、サン、イチ、ニッ、サン…」と《イチニッサン教》の教祖様になってしまう。私がベッドを離れると、今度は独り言のように小さい声で言う。「あっ、またおむつが出てきた」。その姿を見ていると、なぜか母がたまらなく愛おしくなり、思いっきり抱きしめたい心情に駆られた。
そして最期の絶叫がこれだ。「みよちゃん、みよちゃん、大変だー」「どうしたー」「みよちゃん、お尻が、お尻が…みっちにっさん、おっしにっさん、にっちにっさん…」。母がパニックになっている。「みよちゃん」と「お尻」と「イチ、ニッ、サン」がごっちゃになっている。これはただ事ではない。私も慌てふためく。「お尻が、お尻が、どうしたの」。心臓がバクバクし、声まで震える。母はパニックのまま叫ぶ。「お尻が、お尻が、割れているー」。私は一瞬にして、その場に倒れ込んだ。筋書きのない親子コントだ。
そして2日後の朝、母は黄泉の国へと旅立った。呼吸が止まる寸前に、くしゃみを5連発し、私の顔にたっぷりの唾を浴びせて…。母らしい愛嬌のある最期だった。
23年前にあのまま息を引き取っていたら、私は母のことを何も知らずに終わっていたはずだ。介護したからこそ、母の人生や気持ちを知ることができた。
願いが叶うのなら、もう一度母と毒舌漫才がしたい。淡い望みを胸に、仏壇に手を合わせる。「かあちゃん、今宵夢で逢いましょう」。
■編集部から
「毒舌」と筆者の飯森美代子さんは書かれていますが、決してお母さんを責める類いの発言はなかったのだろうということが、文面からうかがえます。美代子さんが楽しんだ丁々発止の母娘のやり取りは、お母さんにとっても心地よい刺激になっていたのだろうと思います。
介護を伴う家族の生活は、必ずしもケアをする側からされる側への思いの一方通行ではなく、双方向性をもったコミュニケーションだということを改めて感じました。
にぎやかだった日々が静かになって、美代子さんは今、さみしい思いを抱えていらっしゃるかもしれません。でも、もしかしたらお母さんは今頃、「カンイチさん」「トヨキさん」との久しぶりの再会を楽しんでいらっしゃるのでは…。夢の中の漫才再演は、もう少し先延ばしにされてはいかがでしょうか?
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