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編集長インタビュー

「老いも認知症も怖くない」出口治明さんはなぜ、松坂大輔投手を褒めるのか?

出口治明さんとなかまぁるの冨岡史穂編集長
出口治明さん(左)となかまぁるの冨岡史穂編集長

年をとれば誰でも認知症になる可能性がある一方で、超高齢化社会を迎え、働き手としての高齢者に期待が高まっています。還暦でベンチャーを開業、古希での転身が注目され、働き方についても積極的に発言するAPU(立命館アジア太平洋大学)学長の出口治明さんに、なかまぁるの冨岡史穂編集長がインタビューしました。

冨岡 出口さんは今年、71歳。「老い」にどのように向き合っておられますか?

出口 老いとは向き合っていません(笑)。人間の体力は18-19歳でピークを迎え、二十歳ごろからだんだん落ちていきます。それを老いと呼べば老いですが、動物としてはごく当たり前のことです。ピークから下っているという意味では、人間は二十歳から「老い」と向き合っているといえます。

冨岡 年を重ねて、変化した部分はあるのでしょうか?ご著書によると、昔は部下をよく怒っていたとか(笑)。

出口 それは単純に怒るエネルギーが減ったからです(笑)。老いではなく、人間がちょっと賢くなっただけ。長い時間を生きていれば、たくさんの人に会います。本も読むし、旅もする。それで賢くならない方がおかしい。長く生きれば、経験を重ねて蓄積が増えるので、より色々な見方ができてくるのだと思います。

会社に入ったころ「なんでメモとらへんのや」と怒られましたが、1時間くらいの会議ならほぼ全て再現できたので、記憶力には自信がありました。今はすぐ忘れるので(笑)メモをとります。足だって、二十歳のようには走れません。体力も落ちれば、脳の働きも落ちます。そこはあきらめるしかないので、会議の内容を覚えられなかったらメモするしかありません。当たり前のことです。

対談する出口治明さん

冨岡 実年齢を超えた若々しさを尊ぶアンチエイジング(抗加齢)ブームもありましたが、なぜ老いに対して我々は恐怖を感じるのでしょうか?

衰えるのは動物として当たり前

出口 分からないことは怖いので、老いることへの恐怖があるのではないでしょうか。でも、衰えていくのは動物として当たり前のこと。当たり前のファクトについて恐怖を感じるのは、時間の無駄じゃないですか。近代合理主義の思想家フランシス・ベーコンが言ったとおり、知識は力であってとても大事です。

冨岡 出口さんは学長を務められ、現在も現役のビジネスパーソンですが、日本の多くの企業や組織には定年制があります。定年延長の議論も進むなか、高齢者の「働き方」についてどうお考えですか。

出口 だいたい高齢者という言葉や敬老の日があるのがいけない(笑)。僕自身は、定年制のような人非人の制度はないと考えています。だって、元気でやる気もあるのに、「60歳になっておめでとう、明日から来なくていい」なんて、こんな人非人の制度はないじゃないですか。定年制は即刻廃止すべきです。

高齢社会は、秦の始皇帝が夢見た理想の世界だと思っています。始皇帝はグランドデザイナーとして中国の骨格となるビジョンを作りました。そのビジョンとは「広い中国を治めるには優秀な官僚による中央集権しか無理やで」というもの。それが2千年以上も連綿と続いているわけです。始皇帝は暴君というイメージがありますが、漢の武帝の時代に歴史家が武帝を持ち上げたのにそう書いただけです。それはまた別の話として(笑)。

対談する出口治明さんと冨岡史穂編集長

その始皇帝が理想としたのは、不老長寿の社会ですよ。高齢者が元気で、人生を謳歌(おうか)するというのは、人類の理想です。『欧米に寝たきり老人はいない』(中央公論新社)という名著がありますが、要するに、健康で遊んでいれば人生は楽しいわけです。理想社会を作るには健康寿命を延ばす以外に方法はない。

そのためにはどうすればいいかと医者に聞くと「働くことが1番いい」。人生を楽しむためにも働くのが1番いいんです。だから定年制はすぐやめないとあかん。「年齢フリー」で働くべきだと思います。定年があるほうが、認知症になりやすいと私は思います。

日本老年学会と日本老年医学会は連名で2017年1月に、一般的には65歳以上とされている高齢者の定義について、75歳以上とすべきだと提言しました。今の75歳は健康やで、ということです。だから生産年齢人口の定義を75歳まで伸ばすべきです。認知症は高齢でも若い人でもなる可能性があるのだから、定年制をなくし、年齢に関係なく、自分が働きやすいように働くべきだと考えます。

働き方の理想は中日の松坂投手

出口 年齢フリーの新しい時代の働き方の代表は、プロ野球中日の松坂大輔投手です。日米通算164勝を挙げて、大リーグで活躍した選手が、入団テストを受けて中日に入った。過去の実績は関係がない、いま何ができるかがすべて、という考え方です。働くのも同じで、意欲や能力、体力に応じて働くべきです。

年功序列という感覚があるから、定年後の職を探す高齢者は「大企業の幹部をやっていた自分にふさわしい仕事を探して欲しい」と主張します。おかしいではありませんか。松坂はそんなことは言っていない。定年制をやめて、年齢フリーで、松坂のようにみんなが自分の意欲、能力、体力に応じて働く社会が、始皇帝の理想に近いと思います。

冨岡 定年制がなくなるということは、高齢で働き続けながら、認知症になる人が増えることにもつながりますね。

対談する出口治明さんの手

出口 認知症になったら、基本的には仕事を変えるべきだと思います。高齢になれば認知症になる可能性が少し高いだけの話で、高齢者=認知症という見方は間違っていると思います。認知症になっても、(社会保険などの)社会のセーフティネットがしっかりあれば、高齢者でも若い人でも解雇されても、他の仕事に変えればいいのです。

日本の1番の問題は、労働者を解雇できないこと。でもこれは大企業を中心とした労働慣行です。もっといえば、一括採用、終身雇用、年功序列、定年制はワンセットのガラパゴス的な慣行で、人口増加と高度成長があって初めて成り立つ、特異な労働慣行です。一度大きい会社に入れば、解雇されないとなれば、モラルハザードが生じます。人間は怠け者だから、競争がなければ、あるいは工夫をしなくても地位が年功で高くなるなら、何もしなくなります。加えて、解雇できないとなれば、いわゆる窓際族の問題が生じます。これは実質的には飼い殺しで、人非人的な仕組みだと思います。プロ野球のように、どんどんトレードに出して、人生の旬の間に、再チャレンジの機会を与えるべきだと思います。

冨岡 家族の介護を理由にした離職も問題になっています。認知症の人の家族に対して、社会はどう支援できるのでしょうか。

歴史から「介護」を見るべき

出口 ホモ・サピエンス(現生人類)の20万年に及ぶ長い歴史をみると、育児も介護も集団で行ってきました。日本では、(子どもが3歳になるまでは母親が育児に専念するべきとする)3歳児神話がありますが、完璧なデタラメです。ゴリラの研究で有名な京都大学総長の山極壽一さんによれば、ホモ・サピエンスは集団保育で社会性を養ってきました。また、イギリスの人類学者ロビン・ダンバーの研究によると、人間社会の基礎単位「ダンバー数」は150人とされ、その規模の集団で生活を営んでいました。男が狩猟し、女はハチミツや薬草などを採り、ケガをしたひとや高齢者が赤ちゃんを集めて集団保育する、それがホモ・サピエンスの原初の姿でした。育児も介護も、集団で行ってきたのが人間のファクトです。

家族の介護離職が問題になっていますが、家族がどう介護を行うかという問い自体がまちがっていると思います。そもそも介護や育児は、人間の長い歴史からみれば、社会全体で面倒を見るのは明らかです。「介護は家族が担うもの」という戦後日本の家族観のほうがゆがんでいます。人間の歴史上の原理原則から、「介護離職」という問題も考えるべきではないでしょうか。

インタビュー後編「認知症になったらどうしますか?」

出口治明(でぐち・はるあき)
1948年、三重県生まれ。京都大学法学部を卒業後、日本生命に入社。経営企画を主に担当した。退職後、還暦でインターネット販売専門のライフネット生命を開業。2018年1月からAPU(立命館アジア太平洋大学)学長。『全世界史講義(上下)』(新潮文庫)や『0からわかる「日本史」講義(古代篇・中世篇)』(文芸春秋)など、著書が多数ある。
冨岡史穂(とみおか・しほ)
なかまぁる編集長。1974年生まれ。99年朝日新聞社入社。宇都宮、長野での記者「修行」を経て、04年から主に基礎科学、医療分野を取材。朝刊連載「患者を生きる」などを担当した。気がつけばヒマラヤ山脈、なぜか炎天の離島と、体力系の取材経験もわりと多い。

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