認知症の母の介護と仕事に奔走 安藤和津さんに忍び寄った「“介護後”うつ」
更新日 取材/上田恵子 撮影/遠崎智宏
ほんの1年前まで「介護後うつ」だったことを、最新の著書で明かしたタレントの安藤和津さん。約12年にわたる実の母親の介護経験と、その終盤から始まった「うつ」症状との闘いについて、語っていただきました。
――著書『“介護後”うつ』を拝読するまで、安藤さんがうつを患っていらしたとは思いもしませんでした。テレビ番組でも、とてもお元気そうに見えたので。
安藤 母の介護の終盤から始まったうつが抜けたのは、ほんの1年ほど前のことです。先ほども友人と当時のことについて電話で話していたんですが、私はどうやら自分でも「うつっぽい、うつっぽい」と口にしていたようで。麻雀会の仲間からも「そういえばちょっと愚痴っぽかったかも」と言われました。でも、ほとんどの人からは「そういう感じはしなかったから意外だった」と驚かれましたね。
その頃は「普段明るい私が暗くなると、みんなが気を使うから」と頑張って明るくしていたものの、家に帰って独りになると、その反動でグチグチと考え込む日々。自分でも「なんで私、こんなにネガティブな性格になっちゃったんだろう?」といぶかしく思っていた記憶があります。
――認知症だったお母様の介護は、足かけ12年に及んだそうですね。
安藤 私が40代の後半だった頃から母に症状が出始め、母を見送った時、私は58歳になっていました。母に起きた最初の変化は、まず怒りっぽくなったこと。言動が乱暴になり、ちょっとのことでかんしゃくを起こすのです。そして得意だったはずの料理の味付けがおかしくなり、鍋の空焚きも日常茶飯事になっていきました。
なんとか病院まで連れて行って検査をしたところ、脳に大きな腫瘍があることが判明。母の様々な奇行は、その腫瘍によって引き起こされた認知症が原因だったんですね。しかも手術しても全摘出はできず、障害が残る恐れもあると言われ、家族会議ののち最後まで在宅で看ることを決めました。
背中がおばあさんみたいに曲がっているわよ
――そして安藤さんご自身の体調にも変化が……。
安藤 ある日、番組の収録中、隣に座っていたベテラン女優さんに「あなた、背中がおばあさんみたいに曲がっているわよ」と言われたんです。首が前に突き出た、いわゆる「介護首」になっていたんですね。でも、その時の私に、そんな忠告を受け入れる余裕などあるはずもなく。彼女の「気をつけなさい」という言葉は、耳を素通りしていきました。
私が55歳の時、母が寝たきりになったのですが、ちょうどその頃、仕事の打ち合わせの最中に突然ワーッと涙がこぼれたことがありました。おかしいなと思っても、毎日目の前に片づけるべきことが山積みになっているのですから、病院に行くという発想など出てきません。しかも人の命に関わること、娘たちの学校に関わること、夫の仕事に関わること、自分の仕事に関わることなど、どれも先延ばしにできないものばかり。当時は「どうして1日は24時間しかないの?!」と、心の中で叫びながら生活していましたね。
そうか、私って介護うつなんだ……
――安藤さんがお母様の介護をされていた時は、まだ「介護うつ」という言葉はなかったとお聞きしました。
安藤 介護うつどころか、まだ介護の問題自体、ほとんど社会の中で取り上げられていませんでした。20年くらい前のことですから。私はちょっと早すぎたんですね。今ならまわりの人たちと情報交換ができますし、「私も親を介護していて大変なんですよ」と言い合えますけれど、私の時は「あなたは何を言っているの?」と怪訝な顔をされるだけでした。特に私の母は暴言がひどいタイプの認知症だったのですが、うっかり愚痴でもこぼそうものなら「親を悪く言うなんて!」と怒られましたから。
ある日、パーティーの席で会った友人に「実は私、介護うつなのよ」と言われた時は、思わず聞き返しました。「それ、どんな症状なの?!」って。そうしたら私とまったく同じだったので「そうか、私って介護うつなんだ……」と初めて自覚しました。
しばらくして病院に行ったところ、やはり診断の結果は「うつ」。ただし私の場合、最低限の量の睡眠導入剤は飲んでいましたが、最後まで抗うつ剤は飲みませんでした。なぜなら、周囲に抗うつ剤を飲み始めてから、余計に症状が悪化したように見える友人が何人もいたから。極力、薬には頼りたくなかったのです。
――ご家族の反応はいかがでしたか?
安藤 あの頃は、自分がそんなひどい状況にいるということに、私自身はまったく気づかずにいました。だから娘たちが「お母さん変だと思う」と家族会議を開いてくれた時だって「私は変じゃない、あなたたちのほうがよっぽど変よ」と本気で思っていましたもの(笑)。テーブルで家族に囲まれ「みんな心配してるんだよ?」と言われながら、「そうやって人のことを悪者にして。あなたたちこそ私のことを責めているんじゃない!」って。そういう風に考えてしまうことこそが「病」なんですけどね。
具合が悪くても、私が働かないと生活できない
――女性の場合、親の介護が始まる年齢は、ちょうど体が変わる時期でもあります。普通に生活していてもしんどいですよね。
安藤 そうなんです。しかも我が家の場合は、夫がその少し前に映画を製作。億単位のお金をつぎ込んでしまったので、私が働かなければ生活できない状態でした。だから具合が悪くても、休むことができなかったんですね。今やっと、借金を全額返し終えたかどうかというところじゃないかしら。よく「男の夢は見果てぬ夢」と言いますが、本当にその通りです。
――ご主人に怒ったりはされたんですか?
安藤 していません。だって目の前に支払わなければいけない請求書が次々に届くんですから、そんな暇はありません。それ以前に、あまりに疲れすぎて、もう喧嘩をするエネルギーが残っていなかったんです(笑)。それに離婚だの何だの言ったところで、お金が返ってくるわけじゃないですしね。一緒に乗り切るしかない。
もちろん「もういやだ、全部投げ出したい!」と思ったこともあります。でも、娘たちもいるのだから、私がなんとかしなきゃという気持ちのほうが強かった。もともと表現者とは、そういうものなのだと諦めていましたから。お金のことなんて考えないで突っ走っちゃう。家族になったら一番苦労する相手です。
トイレで汚れた母を、そのまま夫はおんぶして
――そうは言いつつ、結局はすべてを受け入れてしまう安藤さんがすごいです。
安藤 だから私はいつも「生まれ変わったら、私に世話を焼かれる奥田瑛二になりたい」と言っているの(笑)。一番いいじゃないですか、やりたいことを全部やって。私は夫から直接お礼を言われたことはないんですけど、彼がバラエティ番組か何かに出た際「僕は女房の作品です」と言ったらしいんです。あとは他の俳優さんから「奥田さんが『俳優は女房選びが大事だ。俺を見てみろ』って言ってたよ」と聞かされたり。そういう話を耳にするたびに「人に言わないで私に直接言ってよ~!」と思います。(笑)
――著書の中に、お母様のトイレ介助の際、お尻が排泄物で汚れているにもかかわらず、ご主人がおんぶして運んでくれたという一節がありました。なかなかできることではないですよね。
安藤 そうなの、そういうところなのね。彼はうちの母とは水と油で、しょっちゅう喧嘩をしていたけれど、いざという時はやってくれる。そういう姿を見ているから、苦労させられても「しょうがないなあ」と許せてしまうんでしょうね。それに夫は、私が介護うつでおかしな言動をしても、私を否定するようなことは一度も言わなかった。不満も文句も、何一つ口にすることはなかったんです。
人間って、合わない部分が9あっても、何か1つそういうところがあると、それだけでほだされちゃうところがありますよね(笑)。2つの丸がきれいに重ならなくても、どこか一か所でも繋がっていればやっていけるものなんだなと思います。
- あんどう・かづ
- 1948年生まれ。タレント、エッセイスト。夫は俳優・映画監督の奥田瑛二氏さん、長女は映画監督の安藤桃子さん、二女は女優の安藤サクラさん。コメンテーターとして、TV番組「情報ライブミヤネ屋」などに出演するほか、自身の介護体験をもとにした著書多数。講演活動もおこなう。