手仕事が得意な母が若年性アルツハイマーに 娘がまんがで描いた家族の記録
上田恵子
若年性アルツハイマー病を患った母親の介護記録を、漫画エッセー『母が若年性アルツハイマーになりました。』にまとめた、イラストレーターのNiccoさん。本では、母の雅子さんが「物忘れ」をするようになった1998年から、2016年に75歳で亡くなるまでの18年間の日々が丁寧に描かれています。
「おかしい。病院に連れて行って」
「母が『何かおかしい。病院に連れて行って』と父に訴え、初めて国立病院の神経内科を受診したのは1998年8月。57歳の時でした。その時は『加齢による物忘れでしょう』と診断されたものの、納得できなかった母は60歳になってから再び病院へ。この時も診断結果は同じでしたが、母はもうこの頃から『自分はアルツハイマー病だ』と感じていたように思います」。そう当時を振り返るNiccoさん。
母の雅子さんは、自宅でレザークラフトの教室を主宰。生徒さんに教えるほか、自宅の一部をショップに改装して作品を販売したり、他の工芸の先生方と作品の展示会を開いたりと、多くの人との交流を楽しむ社交的な人でした。ほかにも健康のために水泳や社交ダンスにも通うなど、およそアルツハイマー病からは遠い生活に思えたといいます。
「二度目に精神科を受診した頃は、母の物忘れはかなり進んでいて、会話の中であれ?と思うこともあったのですが、医師から病気ではない、と言われ、日常生活も送れていたので、家族は母の症状がアルツハイマー病によるものだ、とは気づきませんでした」
もっと早く診断されていれば…
雅子さんがアルツハイマー病と診断されたのは62歳の時。2003年8月のことです。最初に不安を訴えてから、すでに5年が過ぎていました。
「内科医から紹介されて訪ねたメンタルクリニックで、初めて病名が明らかになりました。母は診察の際に『10時10分』の時計の針が描けなかったのです。家族もショックでしたが、誰よりも辛かったのは母だと思います。もっと早く診断されていれば、進行を遅らせる薬だって使えたかもしれないのにと、残念でなりませんでした」
この病気は診断がつくまでが大変、とNiccoさん。その間、家族も不安ですが、何よりも本人が一番不安だからです。雅子さんが書いたメモにも、そんな気持ちがよく表れています。
母から「あなたのお名前は?」と尋ねられ
「この頃、母から年賀状をもらっているのですが、そこには『ないものを数えず、あるものを数えて生きていこうと思います』と書かれていました。あの文面は今でも忘れられません。母が病気になったのは私たち家族が心配をかけたせいじゃないのかと、自分たちを責めたことも。理解できるのと納得できるのは違いますからね。納得して病気を受け入れる覚悟ができるまで、家族にも時間が必要でした」
両親が暮らす実家と、Niccoさんがご主人やお子さんたちと住む家は、歩いて15分の距離。けれども当初は、徐々に変わっていくお母様と向き合う覚悟がなく、週に一度、自宅ショップの店番に行くのが精いっぱいだったそう。
「父が母の世話をしてくれていたので、私も妹も父に甘えていました。まだその頃の母は自宅でレザークラフトを続けていたのですが、徐々に仕上がりが雑になってきて……。そんなある日、母が私に『あなたのお名前は?』と何げなく聞いてきたのです。これには『とうとう来たか』と衝撃を受けました」
徐々に革細工が作れなくなっていった雅子さん。家族はついに、デイサービスの利用を決意します。2005年、雅子さん64歳の時でした。
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- Niccoさん
- イラストレーター、造形作家。多摩美術大学卒業後、企業の宣伝企画課、デザイン事務所勤務を経て、出産を機にフリーランスに。現在は「子どもアトリエ」講師としても活動中。夫、娘、息子の4人家族。千葉県在住。