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上野千鶴子×小島美里対談(中編)~認知症でも在宅ひとり死は可能か?

社会学者の上野千鶴子・東大名誉教授(左)と小島美里・NPO法人「暮らしネット・えん」代表理事(右)==埼玉県新座市の「グループリビングえんの森」で
社会学者の上野千鶴子・東大名誉教授(左)と小島美里・NPO法人「暮らしネット・えん」代表理事(右)=埼玉県新座市の「グループリビングえんの森」で

ベストセラー「おひとりさまの老後」や「在宅ひとり死のススメ」の著書がある社会学者の上野千鶴子・東大名誉教授と、約20年にわたり介護サービスを運営し、「あなたはどこで死にたいですか?」を出版した小島美里・NPO法人「暮らしネット・えん」代表理事による対談の2回目です。いよいよ、「認知症でも在宅ひとり死は可能か?」という問いについて語り合います。

対談に際しては、上野さんから3つの問いが投げかけられました。
1つ目は、在宅ひとり死は可能か。
そのためにはどういう条件があればいいか。→前編
2つ目は、認知症でも在宅ひとり死は可能か。→今回(中編)
3つ目は、小島さん自身はどういう最期を迎えたいか。→後編

上野 いよいよ、「認知症でも在宅ひとり死は可能か」の問いにいきましょうか。もう一度、読み上げますね。小島さんはご本「あなたはどこで死にたいですか?」の前書きで「進んだ認知症のある人が自宅で暮らして自宅で死ぬのは、制約の多い今の介護保険制度では、ほぼ不可能と言わざるを得ません」と記しています。それでは、その制約を無くし、どのような条件がそろえば、認知症の人が独居でも在宅で最期までいられますか? 私はぜひ、これを聞きたいと思っています。

小島 認知症の場合、ご本人にとっても、ケアする側にとっても、ご家族にとっても。一番厳しい状況になるのは、認知症になりはじめの時期なのですね。例えば、日中、デイサービスなどに来ているときには落ち着いて過ごされているのです。けれど、家に帰るとパニックに陥ってしまう。一人になり、何かしようとしてもどうしていいか分からなくなり、「どうしましょう」「どうしましょう」とヘルパーやケアマネジャーなど手配できるところに電話しまくってしまう。まだ、自身で電話ができるうちは、そういうことが起きてしまいます。あるいは、どこかに行ってしまうといったことが多く起きるのも要介護1,2ぐらいまでだというのが現実です。本来、その時期が、周囲にとっては介護の負担が一番重いはずだと思います。そこからさらに先へと認知症が進んでも、同時に身体的・体力的なものが落ちていっていると、少なくとも動き回ることは難しくなっていきます。ですので、認知症になりはじめたころから中期に入ってくるころまでの時期を越えれば、落ち着いていくことが多いのです。けれど、その落ち着くまでの間を手厚くケアするという態勢が全く出来ていません。要するに、今の公的介護保険制度での要介護認定で用いられる日常生活自立度の判定と認知症のご本人と介護者の状況や負担との間には、すごく大きな乖離(かいり)があるのです。

上野 公益社団法人「認知症の人と家族の会」の方たちも、認知症の方に対する要介護認定での日常生活自立度の判定のあり方には問題があるとおっしゃっていました。今は、身体的な自立度に重きが置かれ、認知症のある人は、要介護度が軽く出てしまう傾向があると。
そうすると、要介護認定制度の判定基準が、もっと認知症の要素が考慮されるように改善されれば、問題は解決すると思いますか?

小島 全部が解決されるとは思いませんけれども、少なくとも今よりもマシになるだろうと思います。認知症で独居の方に対するケアの提供回数を増やすことができると思います。その分、在宅で暮らしていく中で生じるリスクも、少しは減らせるようになると思います。

上野 認知症の初期でいちばん活動的な時には見守りが一番大事だということですが、どれくらいの頻度で見守りが必要なのですか?

小島 ある時期には、30分おきに必要になることもあるかもしれません。けれど、今の介護保険の仕組みでは、訪問介護から次ぎの訪問介護までの時間を原則2時間空けなければならないというルールがあるのです。けれど、2時間空くと、足腰が丈夫な認知症の人は、どこまでも行ってしまいかねません。こうしたことが、認知症での在宅を難しくしている制約の一つです。

見守りを人の目からテクノロジーに変えることは可能か

介護現場の現状について語る小島美里・NPO法人「暮らしネット・えん」代表理事=埼玉県新座市の「グループリビングえんの森」で
介護現場の現状について語る小島美里・NPO法人「暮らしネット・えん」代表理事=埼玉県新座市の「グループリビングえんの森」で

上野 そうした見守りを人の目からテクノロジーに変えることは可能なのかという点については、どうですか?

小島 テクノロジーはある程度使える人には使っていけばいいと思います。認知症の人にGPSを持って頂くとすごく助かります。ただ、大抵のかたが持ってくれませんね。

上野 GPSを持って歩かないようならば靴に仕込むなどの方法もありますよね。今ペットにマイクロチップを埋め込んでいるように、将来的に、認知症の人向けに体内埋め込みのGPSのようなものができたら、それを利用することは許容範囲ですか?

小島 それは、許容しません。すごく悩ましいのですが、ずっと私の中でも大きな課題になっていることです。矛盾したことを言いますけど、「認知症になったらそんなに年がら年中付け回されなきゃいけないのか」という思いは確かにあります。以前、デンマークの高齢者施設を見に行った時に、「こちらではGPSはどうしているのか?」と聞いたところ「使えますけれども、裁判所決定だ」との回答でした。やっぱり、GPSとかそういうものに関しては、私たちは“人権”というところから見た時に本当にいい加減な対応をしているなと痛いほど思いましたね。

上野 以前、監視カメラ問題で施設職員の方と議論したことがあるのですが、一方で監視ではあるけども、もう一方では自衛のためにも役立つものでもあるのだと。GPSや監視カメラにも、その両義性がありますね。そうすると本人の自己決定であればいいわけですが、認知症の人には、自己決定能力がないという前提になるのでしょうか?

小島 それも微妙な問題ですね。グレーゾーンがいっぱいあるのが介護だとも思います。

“在宅の限界”とは、いつ誰が、何をもって判断するのか

上野 私が最近、こだわっている言葉に“在宅の限界”というものがあります。これが、ケアマネジャーから本当によく出てくるのですよ。

小島 出ますね。

上野 それで、私は「その“限界”を具体的に、いつ誰が、何をもって判断するのですか?」と聞くようにしてきました。同じ質問を小島さんにしたいです。

小島 私は、身体的な介護の限界というのは、それこそ最期まで自分中心に、ご本人が判断できると思っています。一方で、認知症のある人の場合は、“一人ではいられない”ということを、言葉ではないもので発信する時があるのです。周囲に人がいないことによる不安がものすごく大きくなっていってしまうのです。それが“限界”になるのではないかと思います。
そうなると、在宅でケアをするのがとても大変になります。けれど、そういう状況に認知症の人がなると、多くの場合、ご家族は施設に入れるとますます悪化してしまうと思って、なんとか在宅で持ちこたえようとします。いよいよ、もう耐えられないという状況になって、半分だますようにして、施設に入れたら何の問題も起きなかった。そんな経験を何度もしてきました。

上野 そのような話は、私も聞いています。家族がぎりぎりに追い詰められてということでしょう。だから、自己決定じゃありませんね。“一人ではいられない”というのはどういう時期に起こるものですか?

小島 初期の時もありますけれども、色々です。ある時突然みたいなのもあります。認知症というのは、長いこと付き合っているとびっくりするような症状に出会うことがあります。

上野 どのようなものですか。具体例を教えて下さい。

小島 一般的な認知症だった方が、ある時から、「自分はこの国の総理大臣で……」といったことを言い始めたこともありました。それだけならば、笑って対応すればよいのですが、暴力的になって大声で叫ぶようになったのです。それ以前は全くそういう人ではなく、豹変(ひょうへん)してしまったのです。理由もきっかけもわかりません。

「認知症で在宅ひとり死が可能か」について語り合う上野千鶴子さんと小島美里さん=埼玉県新座市の「グループリビングえんの森」で
「認知症で在宅ひとり死が可能か」について語り合う上野千鶴子さんと小島美里さん=埼玉県新座市の「グループリビングえんの森」で

上野 そういう場合は、鎮静などの医療的介入が必要になるくらいのレアケースだと思います。そういうレアケースを除くと、認知症でも在宅で最期までいられるケースは出てきています。もう一つ食い下がって、「小島さんご自身にとって認知症でも在宅が可能だという“ギリギリ”のところは何ですか」というのを私は聞きたいです。

小島 やはり、同じ話になるのですが、年がら年中不安に駆られているような状況になるとときが“ギリギリ”かなと思います。一緒に過ごすことができるグループホームのようなところで過ごす方が良いのではないかと思っています。高齢者施設が良い施設ばっかりではないのは知っていますが、施設に入ってほっとした顔をされる認知症の人も多くいます。在宅で不安を感じながら生きるよりも、施設に入所しても不快でない状態で生きていければいいのではないかと思うのです。

上野 お言葉ですが、そこには諦めと適応があると思います。施設に入り、「帰る妄想」を訴えられる人は多いですよね。私は妄想だと思いませんけれど。みなさん納得ずくでは施設に来ておられません。置き去りにされるような形で施設に入所させられたお年寄りが「なんで私はこんな所にいなきゃいけないんだ。うちに帰る」とおっしゃるのは、妄想ではなくて悲鳴ですよ。

高齢期とは何とも言えないことばかり

小島 ただ、帰る妄想の方たちには、私も山のように会いましたけれども、だいたい自宅にいた時から帰る妄想があるのです。だから、帰る妄想というのは、自分がこの前まで住んでいた家に帰りたいということではないのです。グループホームにいてあまりにも「帰りたい」と言われるので、実際にご自宅に連れて帰ったことは、何回もあるのですよ。でも、自宅に到着すると、クイっときびすを返して、グループホームへと帰ってきてしまうのです。ご自宅でも決していい思い出はなかったのだと思います。家族がいる方だけでなく、独居の人でも同じようなことが何回もありました。これはどういうことなのだろうかと不思議に思います。高齢期というのは、何とも言えないことばかりだな、というのが実感です。

上野 私自身の老後についても、何が起きるか分かりませんから、今から決めてどうこうなることではないとも思っています。けれど、私には今のところ積極的に自分の住まいを変える理由は何一つないので、できればこのまま在宅でひとりで最期まで過ごしたいと思っています。

小島 繰り返しになりますが、私は、認知症になって不安を感じるようになる人を多く見てきたので、ひとりがいいとは言い切れないものだと思っています。私自身は、在宅ひとり派なのですが、在宅絶対とか施設が絶対とか、どちらとも思わないのですよ。

上野 私も、在宅ひとり死原理主義者ではありません。高齢者施設に入所して、そこでご機嫌よく、お仲間と楽しく暮らしていらっしゃる方も知っています。私も、自分の将来予測が出来るわけではないので、どうなるか分かりません。ですから、少なくとも選択肢があるほうが無いよりはいいと思っています。

小島 まさにそうなのですよ。選択肢をたくさん作っておいて、誰でも自分に合った選択肢をちゃんと選べるようにするのが、これからの高齢社会のあるべき姿だと思うのです。それが圧倒的に足りないということだと思うのです。

上野 選択肢がある方がよいのは、在宅ひとり死は難しいから、なんですね。

小島 現状では、なかなかできないですよ。だから、認知症の人に対しては、私としては、在宅ひとり死を勧めようとは、思えません。

上野 今は、「最期は施設入居が上がり」という流れがあまりにも定着しているので、「在宅ひとり死も選択肢としてあるのだ」ということを訴えていくためにも、少し強めに「認知症になっても在宅ひとり死はできる」というメッセージを社会に送る必要があると思っています。事実、事例は徐々に増えてきていますから。

次回「どういう最期を迎えたいか」に続きます。

上野千鶴子(うえの・ちづこ)
1948年、富山県生まれ。京都大学大学院社会学博士課程修了。社会学者、東京大学名誉教授、認定NPO法人ウィメンズアクションネットワーク(WAN)理事長。女性学、ジェンダー研究のパイオニアであり、指導的な理論家のひとりとして活躍する。高齢者の介護とケアも研究テーマとして取り組む。「近代家族の成立と終焉」(岩波書店)など著書多数。
最新刊に「最期まで在宅おひとりさまで機嫌よく」(中央公論新社)がある。
小島美里(こじま・みさと)
1952年、長野県生まれ。1990年ごろ全身性障がい者の介助ボランティアグループを結成したのをきかっけに、介護事業に関わるようになる。2003年、NPO法人「暮らしネット・えん」設立。代表理事を務める。訪問介護、居宅介護支援、小規模多機能型介護、グループホームなどの介護保険事業や障害者支援事業を中心に、高齢者グループリビング、認知症カフェなど様々な事業を運営する。

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