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認知症と生きるには

祖母をたたく母を目撃 娘がとった行動に驚き 認知症と生きるには43

母親が祖母をたたいていたことを思い出す女性

大阪で「ものわすれクリニック」を営む松本一生さんのコラム「認知症と生きるには」(朝日新聞の医療サイト「アピタル」に掲載中)を、なかまぁるでもご紹介します。前回のコラムでは、介護家族がつい仕事や日々の生活の忙しさからうっかりとしてしまった結果、介護の破綻を引き起こした例を紹介しましたが、今回から2度にわたって「認知症介護に肯定的な側面があるか」というテーマを取り上げます。

今回からは「認知症介護の肯定的側面」を取り上げたいと思います。認知症はあくまで病気の一形態ですが、その人の暮らし方や周囲との関係に大きく影響するという特徴があります。このような関係から、認知症介護を経験しなければあり得ない展開が介護者に及ぶこともあり、私はこれまでに数多く、そのような経過を見てきました。あえて誤解を恐れずに書きたいと思います。認知症の介護を通して「ひとが他人のことを思う」という普遍的なメッセージが世代を超えて伝わっていくことがあります。

研究室で聞いたことば

かつて診療所の臨床と並行して週3日(午後のみ)大阪府内の福祉系大学の特任教員をしていた時のことです。自分が教員をしていながら恥ずかしい話ですが、当時の私は若い人たちが金銭的にはやや不利ともいえる条件にもかかわらず、自分の将来の仕事を介護や福祉と決めたことを不思議に感じることがありました。

当時はゼミの学生が15人ほどいましたので、彼らに「どうして福祉や介護を生涯の仕事に選んだの?」と聞いてみました。相手は20代の学生。誰かから「これからは福祉の時代」と聞いてきたのだろうと思っていました。ところがその時に返って来た答えに、私は驚かされ、その後の臨床医としての生き方を教えられました。

みんながゼミを終えて帰宅した後、私の研究室にひとりの女子学生が戻ってきました。恋愛の悩み相談でも始まるかと思っていたのですが、手越真理さん(仮名、20歳)は、ぽつりぽつりと次のようなことを話し始めました。

先生、わたし、親の介護を見て育ちました。母が認知症の祖母(母親の母)を介護して9年、私が小学生になったころから中学を卒業するまででした。祖母のことはそれ以前、祖父が見守っていました。その祖父が急死(心筋梗塞)してしまい祖母がうちにやって来たのですが、それはもう混乱の真っただ中で、毎晩明け方まで声をあげるのです。そのうちに夜中に起き出して朝方まで興奮するようになりました。

幸いにも近くに市民病院があり、そこに専門外来がありましたので母は祖母を連れて行っていました。症状は「せん妄」というらしいと両親も言っていましたが、それが何かは家族の誰もよくわかりませんでした。それでも薬を飲ませて「今晩は寝てくれるように」と、私たちは願いましたが、淡い期待はかなえられませんでした。

ある夜に見た母の姿


そしてあの日がやってきました。私が高校受験のための補講を終えて帰宅し、玄関を開けると聞こえてきたのは母が泣き叫ぶ声でした。普段は穏やかな性格の母なので、私は大きな声で叱られた記憶すらないほどの人でしたが、あの時、母は「いい加減にしてよ、お母ちゃん」と叫びながら祖母の顔を何度もなんどもたたいていたのです。

後にわかったことですが、高校2年の兄がその日、大学受験の準備に専念したいからと親戚の家(母の姉の家)に行ってしまったらしいのです。母は当初、自分の母親だから娘の自分が介護できないはずはないと思っていたようです。でも、その母が私の兄のことを守れなかったことで、ついに燃え尽きてしまったのだと、その日の私には直感的にわかりました。

でもね、先生、わたし、あの時の母の姿にはびっくりしたけれど、それで母を責めませんでした。むしろ、泣き叫んでいた母を見て「この人は人生をかけて私たち家族と母親を守ろうとしたのだ」と思いました。そんな母が祖母を介護しきれず入院することになり、入院からたった6日目に祖母は食べたものがのどに詰まり窒息して亡くなりました。

その後の母は長く「うつ」と向き合っています。私は母に答えをあげたいです。私が介護の専門家になって、あの時の母にできる最高のことだったのだと、そして母は十分に祖母や私たちのために努力したことを証明してやりたいのです。先生のゼミに入って医師でもある先生が介護のことをどのように考えているか、ぜひお聞きしたいです。

非力でも寄り添うこと

話を聞いて、私は驚きました。彼女が母親を誇りに思い、その姿を見た自分が介護の専門職となって、自分を許せないでいる母親に許しを与えたいと願っていました。

彼女はこうも言いました。「つらいことはたくさんあるけど、私が一番つらいのは祖母の混乱や母親の燃えつきではないのです。あの日の母親に『あなたは違っていなかった』と言える自分がいなかったことなのです」と。

認知症を介護することはたくさんの難しい側面を持っています。介護しながら人は「こんな介護の姿を見て、子どもたちには悪影響がないだろうか」と心配も尽きません。でも、手越さんのように認知症介護を見たことで、人の支援をしようとし始める「次の世代」が生まれることもあります。

難しい病気はたくさんあります。それを治すことができなくても、そこから逃げずに最後まで寄り添うことができるか、介護を支える医療者である私たちにはその問いが突き付けられています。私は彼女の言葉からもう一度、全面的に臨床の場に戻ることを決めました。治せなくても寄り添う人の存在が不可欠である認知症には、彼女のような介護の専門家の存在が不可欠であり、また、協力者として私たち医師の役割があるのだと信じています。

※このコラムは2019年1月18日に、アピタルに初出掲載されました

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