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恩蔵絢子さん「その人らしさ」とは何か。認知症の母と暮らす脳科学者の考察と希望(1)

実母が認知症を発症してからの2年半をつづった著書『脳科学者の母が、認知症になる』。筆者で脳科学者の恩蔵絢子さんは、この暮らしの中で「認知症の母に残る、母らしさ」に気づいたと言います。脳の専門家として、娘として、その目に当事者はどう映ったのでしょう。本人に聞きました。

脳科学者の恩蔵絢子さん

憂さ晴らしの日記がはじまり

——今回の著書は、脳科学の難しい本だと思っていたら、私的なエピソードも多く紹介されたエッセー風ですね

「私の洋服を母が着ていて腹が立った」とか「買ってきたお土産を母に捨てられて悲しかった」とかですね。日記がもとになっているせいかもしれません。母が何かを間違えたり言ったりするのに耐え切れなくなったときに、憂さ晴らしで書いていました(笑)
でも日記をつけた理由は、もう一つあります。

インターネットで認知症を調べると、徘徊や暴力、妄想など、その人がその人でなくなってしまうようなニュアンスの、恐いイメージばかりが目につきます。でも本当に母が変わってしまうのか、生活の中の小さな出来事をしっかり記録して、自分で確かめたいと思ったんです。

たしかに母は、色々なことが少しずつできなくなっていきます。けれど、できていたことができなくなったら母は母でなくなるのか、能力と「その人らしさ」はどう関係しているのか、私は悩んでいました。いま、私の目の前で昔と変わらず笑う母と、世間が認知症からイメージする存在、そこをつなぐ言葉が欲しいと思いました。日記がかさを増し、その先に、脳に関わる希望のある結論が見えた時には、本にしようと考えていました。

恩蔵絢子さん
能力と「その人らしさ」はどう関係しているのか、確かめたかったと話す恩蔵さん

「良くなかった」と「すごく良かった」は矛盾しない

——脳科学の中でも「感情」を専門とされていますが、お母様との暮らしでも何かを感じられましたか

本にも書いたことですが、ある日、母の友人が母を音楽会に誘い出してくれたことがありました。そのときに感情は希望だと思いました。帰宅した母に感想を聞くと、「全然良くなかったわ」と言ったんです。せっかくお友だちが、音楽好きの母のために連れ出してくれたのに……とショックでした。でも、何かの勘違いかもしれないと思い直し、夕食の時にもう一度尋ねると、今度は「すごく良かったわよ!」って。矛盾して聞こえますが、この時に、両方本当なのかもしれない、感情は複数あってもいいんだと思えたんです。

私たちが何かを観に行ってその感想を聞かれたとします。たとえ「すごくよかった!」と答える時でも、初めから終わりまで一秒一秒の感情の動きを見てみたら、良い時も悪い時もあり、感情は細かく動いていたはずなのです。

母も、お友だちと会えて楽しかったはずです。でも、うまく会話できずもどかしかったのかもしれない。電車が不安だったのかもしれない。音楽は良かったのかもしれない。「良くなかった」のも「すごく良かった」のも、どちらも本当だろうなと思いました。さまざまな感情があるのが普通で、矛盾はしていないんです。

——突飛に思える言動も、見え方が変わりますね

そう言っていただけると嬉しいです。徘徊もそうでした。一度、母がいなくなってしまったことがあるのですが、母は家を飛び出してあてどなく歩いていたわけではありません。外出先のトイレで父とはぐれてしまい、「家に帰りたい」と強く思って一人で歩き始めてしまっただけで、結果的には自力で家に辿りついてくれました。母なりに感情を動かし、母なりの理由で動いていたんです。

恩蔵絢子さん
娘だからこそ感じる「その人らしさ」。そこに脳科学者としての私の仕事もあるはずだと語る恩蔵さん

n=1から見つかる科学もあるはず

——本の完成から半年、お母さまの異変に気づいてから3年が経ちました

最近は、言葉でのコミュニケーションが難しくなりました。リモコンを取ってと頼んでも、リモコンが分からない。でも言葉ではないところで感情を通わせています。
たとえば母は料理が得意でしたが、認知症と診断されてからは私も一緒に台所に立つようになりました。3年経った今では、母は集中力を保てなくなってきたので、ほとんど私が作ります。それでも私が台所に立つと、母も来るんです。居間で待っているよう伝えても、やはりこちらを気にしている。私が、料理が苦手なことを知っているんです。

そして「何かやらなくては」と思うのでしょう。母は、居間に畳んであった自分の洋服をわざわざ崩して、畳み直しはじめます。行動だけをみると無駄な行動です。でも、もともと母は、人のためにいつも動きまわっている人でした。

そう考えると、こういった行動に母らしさが見えたんです。「母は私を助けようとしてくれているんだな」と。畳んだ服を崩してたたみ直すのは、自分で物事に参加している、物事に整理をつけているというしるしなのだと思います。自尊心を保つ上でも、母にとって服を畳むのは大事な仕事だと思えました。

——一緒に暮らす家族だからこその気づきですね

日記を書きはじめた時、私が知りたかったのは「母が母でなくなってしまうのか」という人格の問題でした。通常の科学の手段で研究するなら、たくさん人を集めて平均値を出す作業をします。でも人格を平均化したら人格は消えて、多くの人に表れる特徴だけが抽出されてしまいます。それが、世間でイメージされている徘徊、暴力、妄想というものになるのでしょう。平均化するから、一人ひとりの実像から離れたイメージができてしまうのです。

人格をみるには、一人に寄り添って観察しなくてはいけないと思うんです。「ロマンティック・サイエンス」と言われ、n=1(サンプル数1)の私的な話になる危険の高い考え方ですが、そういう科学もあるはずです。心理学者のジャン・ピアジェは、3人の我が子を徹底的に観察し、心理学全体において大切だと位置付けられた仕事をしました。

認知症も、人格はn=1で見ないと理解できません。今までとの違いも私だからこそ前向きに見つけられるものがあり、「その人らしい」と感じられる。そこに脳科学者としての私の仕事もあるはずだと思っています。

――恩蔵絢子さんのインタビュー(2)に続きます

プロフィール

恩蔵絢子(おんぞう・あやこ)
脳科学者。専門は自意識と感情。一緒に暮らしてきた母親が認知症になったことをきっかけに、診断から2年半、生活の中でみられる症状を記録。脳科学者として分析した『脳科学者の母が、認知症になる』(河出書房新社)を2018年に出版。認知症になっても、「その人らしさ」はずっと残っていると確信している。現在、金城学院大学、早稲田大学、日本女子大学の非常勤講師。

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この連載について

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