編集長インタビュー

認知症は予防も治療も維持もダメ? 医療は敗北したのか

冨岡 「なかまぁる」は、認知症当事者とともにつくるウェブメディアというコンセプトです。じゃあ、当事者とはだれか、というと、認知症のご本人であり、家族であり、医療や介護といった仕事やボランティア活動を通して支える人たちでもある。さらには、個人的なつながりや関心を通じて、当事者意識を持つ人たちもいる。 この輪のなかに、私たちメディアからの情報発信を通じて、もっと多くの人が入ってこられるようにしたい。それが、社会全体として、「認知症を自分事ととらえる」ということなのではないかと考えています。

木之下 何を基盤にして、人々に支持されるメディアになっていくか。収益性も求められるし、難しい判断を迫られることもあるかもしれない。商売なんだから、金儲けはきちんとやるべきだと僕は思っている。そのときにメディアとして、自分たちが大事にしていること、望ましいと思うことをきちんと明らかにしておくことが重要だよね。

ハッタリやうそに塗り固められた心地いい話とか。確かに短絡的にはうけるよね、そういう話。なんとかの油、とか。脳のトレーニングと称したりさあ。わかりやすいもんね。でも、そんなことを流布することがメディアの本来の仕事ではないと思う。 あっ、メタボ対策はいいらしいですね。血圧の管理も大切。高血糖、過体重、たばこ、引きこもり、社会的孤立。こういうのはダメらしい。でも、そんな話、認知症に限らず、心臓や腎臓にもそうでしょう。適切な運動。適切な食事。これは大事。なににって?カラダに対してです。脳もカラダの一部ですね。僕には耳が痛い。そうできない自分がいる。

でね、認知症に特別なものは今はない。体に悪くて認知症にいいものもない。体にいいことは脳にもいいんですよ、きっと。人間はそういうツクリになっている。普通に考えればいいんです。

そんなことではなくて、今は、認知症になってからも「よりよく生きる」ための情報提供をしてほしい。物理的/化学的/生物的な環境のみならず、文化あるいは人と人との関係といった社会的環境が、認知症になってからも生きやすくするものとなってほしい。そういうコンテキストにおいて、メディアには強大な力があると思います。

僕は、やっぱり「人」。人が生きていくうえで役に立つかどうかだと思う。そういう意味で、支持される「新たな文脈」というか、コンセプトメイキングができたらいいね。それでしっかり、大もうけしたら、そのコンセプトはもっと多くの人に信じてもらえる。あっ、いまハードル上げちゃったかな。

どういうソリューションがあるのか

冨岡 (笑)がんばります。もう一つ、白状しますと、私自身が「いつか認知症になるだろう」と思っていて、そのときに、あるいは、いま認知症になったとしても、「大丈夫だ」と思えるような社会を早くつくりたい。ある意味、自分のためにやっている、という部分もあるんです。

冨岡 編集長インタビュー3

木之下 医者っぽいことを言わせてもらえば、二つある。一つはサイエンスとしての切り口。メタボ対策以外の予防法については、僕は悲観的です。そうではなくて、さきほど、認知症はもの忘れではないと話しました。例えば記憶しづらいのが不便だとして、じゃあ、どういうソリューションがあるのか。これもサイエンスの仕事です。

さらに、記憶力の変化だけでなく、認知症は認識のあり方に様々に影響します。「漢字がばらけるようで、読めなくなる」などと教えてくれた認知症の人もいます。それはどういう体験なのか。下りようとする階段が蛇腹のように見えるとか、衣文掛けの洋服は着られるけど手渡された服は着られないとか。

あるいはレビー小体型のように、幻視に悩む人もいる。たぶん意識レベルの低下が引き起こす現象なんだろうけれど、はっきりしたメカニズムはつかめていない。記憶はどうか、注意はどうか、視空間認知はどうか。僕らは、そういった個人の感覚を他者から見てどう点数化するかなどの他覚的評価になじんでいるけれど、それをさらに人に伝えて工夫を凝らす、そういう問題解決策にまで至るような素材はまだ足りない。そういう五感に生じる変化に対して、つまり体験ですね。サイエンスが研究するべきことはもっとあるし、まだまだ不足している。

このクリニックの診療室の壁は、実は、パレイドリア(対象が実際とは違って知覚されること)が起こりづらいものを選んだし、カレンダーも置いていない。それは、青い字、赤い字が目に飛び込んできていやだという本人の声があったからです。自分じゃ気づけなかった。

もう一つは、社会学的なアプローチで、医療業界としては一番苦手な領域だと思います。たとえば診察の場面において、人としての医者はどう振る舞うべきか。これはなかなか難しい問題がある。以前に比べれば、殴ったり蹴ったりする認知症の本人に対し、簡単に薬を出すのではなく、まずは向き合い方を考えるという方向に、全体として向かいつつある。もっと、そういう方向に伸ばしていかなければならない。それを邪魔する要因もいっぱいあるけどね。

認知症の本人にも「偏見」

冨岡 先生はよく、認知症の苦しさは、認知症そのものの不自由さプラス「視線の病」だとおっしゃっています。周囲の偏見や……

木之下 周囲だけでなく、認知症の本人のなかにも「スティグマ(偏見)」があるんです。うちでも、診断を受けて泣く人がいる。僕は言うんですよ、「泣いてる場合じゃない、人生は続くぞ。認知症になったからって、不自由かもしれないけれど、不幸でもないし、ましてや人間が壊れるわけじゃないぞ」と。「えっ!」という反応が多いです。

木之下先生5 編集長インタビュー

一般的に医療は、予防、回復、維持、この三つで成り立つんじゃないかと僕は思っています。でも認知症では、これが全部だめなわけです。じゃあ、4番目はなんだと。ないな……と思っていたんだけど、最近の僕なりの答えは、等身大のその人の姿を伝えるということ。それから予後、これは、未来の等身大の自分を予測すること。

認知症そのものは痛くもかゆくもない。ましては不幸の始まりでもない。あっ、「認知症になったらわからなくなるから幸せよね」と聞いたこともあるけれど、そんなはずもない。あと「もうずいぶん年取っているから、ボケてもいいんだよ」など。人間って、年取れば感じ方が鈍くなるのか? 多分、それもうそでしょうね。年取れば、自分の生物学的な老いも体験するし、近しい人々の死別もあるしね。 認知症になってからも人生は続きます。だから過大でも過小でもない、自分自身をまず見つめたらどうだろう。診察によって、よりよく生きるヒントが見えてくれば至高の喜びですね。

冨岡 本人にしてみれば、自分にいま、何が起きているのかを、医学の視点から教えてもらえる。

木之下 そうそうそう、知りたいでしょ。それに知っておいた方がいいこともある。ココナツオイルを飲み過ぎれば、認知症にもなって、ついで僕みたいなメタボにもなるかもしれませんとかね(笑)

冨岡 よかった、医療の敗北ではないんですね。

木之下 医療にできるとしたらそれだよね。本人が、人生の「主体者」として生きていくためのお手伝いをする、かなぁ。まだ「かなぁ」という段階だけど。これはある意味、医療の本来あるべき姿だと思うんです。そんな大それた目標設定はしている。でもどこまでできているかは、自分自身についても反省しかない。

冨岡 そういえば、お話の冒頭で、「医療を本来の姿に戻すべきだ」とおっしゃっていました。

木之下 そういうこと。でもさあ、このインタビュー、だいぶあちこち話が飛んだぞ。どうやってまとめるの? インタビューされる側、する側に新たな、かけがえのない関係性が生まれていれば、僕はそれでいいんだけど。さ、二次会行こうぜ。

(終わり)

【注目の記事】

木之下徹(きのした・とおる)
1962年生まれ。86年東京大医学部保健学科卒、96年山梨医科大卒業。2001年から東京都品川区で認知症の在宅医療に取り組む。14年、認知症や軽度認知障害が気になる人の外来クリニックとして、のぞみメモリ―クリニック(MRIあり)を開院した。 白衣は着ない。少し……ぽっちゃりしている。
冨岡史穂(とみおか・しほ)
なかまぁる編集長。1974年生まれ。99年朝日新聞社入社。宇都宮、長野での記者「修行」を経て、04年から主に基礎科学、医療分野を取材。朝刊連載「患者を生きる」などを担当した。気がつけばヒマラヤ山脈、なぜか炎天の離島と、体力系の取材経験もわりと多い。

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