\新連載!/すべては正月の母の転倒から…… 五十路娘の迷走の始まり
いつかはやってくると思いつつ、ついつい先送りしてしまう親の介護の準備。関西在住のイラストレーター&ライターのあま子さんもその一人でした。91歳になる母は小柄で弱々しい見た目ながらも、自分で立って歩くことができ、温泉と時代小説を愛する呑気なおばあさん。近くに暮らすあま子さんやカラ美さんという2人の娘の世話を受けながら1人暮らしを続けていました。そんなお母さんが手首を骨折し、入院したのをきっかけに新たな“住まい探し”を迫られることに!! 今回は、そこに至る“前史”をつづります。
はじまりは正月の転倒
それは2022年の正月2日のこと。
普段は、関西に暮らす私(あま子)と姉が、近くに暮らす母の面倒をみているのですが、正月休みを利用して首都圏に暮らす兄一家が母のもとに帰省中。この日は、兄に母のことは任せて、私は、自宅から1時間ほどの夫の実家に新年のあいさつに向かっていました。その道中で、届いた兄からの1本のLINE。
<母ちゃん、明けがたに転んだ。手首が腫れて痛がっている。眠いらしいから、とりあえず寝かせて様子をみる。>
LINEを見た夫は「(自宅に)帰ろうか」と言ってくれましたが、私は、母とは一昨日も昨日も会っています。夫の実家に帰省するのは、コロナ禍ということもあり、前年の正月以来1年ぶり。母のことも心配だけれど、夫の両親に夫婦そろって顔を見せたい。なんといっても、夫の実家はもうすぐそば。
「寝てても治らん! パジャマのままでもいいから病院に連れていって!」と、私は兄へ返信し、姉へも電話で状況を説明。気持ちを整理する暇もなく、そのまま義父母のもとへ——。
思い起こせば、このドタバタがすべての始まり。
翌日、母は左手首の骨折が判明し、緊急入院。手術は成功したものの、新年早々、入院生活を余儀なくされることとなりました。
新型コロナの感染予防対策のために面会ができないまま、10日ほどたったころ病院から連絡がありました。「お母さん、認知症の症状がでています」。
転倒→骨折→入院→認知症発症
頭に浮かんだのは、ひそかに恐れていた“よく聞く話”が現実になったということ。
若い時には、中華料理店を切り盛りするなど、働き者だった母。けれど、もともとのんびりとした性格で、時間などにはルーズなところもあり、私が子どものころから「今日は何日だっけ?」などと尋ねることもしばしば。転倒前から、少しずつもの忘れが多くなってきている気はしていましたが、年相応のもの忘れと受け止めていました。しかし、入院生活で一気に認知機能の低下が加速したのかもしれません。
“このままではもっと悪化してしまうかもしれない”と思い、早々に退院し、通院リハビリへと切り替えました。
幸いリハビリが功を奏して、けがは順調に回復。母はこれまで通り、一人暮らしを続ける気満々でした。
しばらくの間は、毎日、私か姉が、夜ごはんを用意するなどしてサポート。
けれど、「薬を飲み忘れる」「病院の日を何回も聞く」「湯沸かしポットのスイッチを何度も入れる」など、あきらかに以前よりも母の忘れはひどくなっていきました。「さっき、言ったでしょ」と言いたくなるような頻度で、何度も同じことを尋ねてきます。
“これは、入院生活による一時的なものではないのかも知れない……”
そんなことが頭をよぎりました。
決定打となったのは、7月に入ったある日でした。
私が訪ねると、暑さが厳しくなってきているにもかかわらず、エアコンもつけずに、ポツンと座っていました。水分を摂るようにと買っておいたペットボトルの水もほとんど減っていません。今後、熱中症で命にかかわるようなことになってしまうのではないかと、冷や汗が出てきました。
“ケガが治るまで”など期間限定なら、家族が泊まりこんで世話もできますが、先の見えない介護となると……。兄姉それぞれ生活があります。公的介護サービスを使ったとしても在宅では、24時間だれかが見守るのは困難そう。
母はずっと「1人で暮らせなくなったら兄の世話になる」と言ってきていました。私も姉も、“いずれ”のその時には、兄のもとへ母が行き、同居することをイメージしていました。
それが……。なんと!!
「住み慣れた関西にいたい」「関西ならば施設でもいい」と母が、まさかの方針転換。
このあと、こんなにも大変な道のりが待っているとは夢にも思っていませんでした。
母の住まい探しを巡る五十路娘の迷走の始まりです。