認知症とともにあるウェブメディア

当事者の声

【新連載・当事者の声】40歳で認知症 先輩当事者の一言で前向きに 渡邊雅徳さん前編

認知症の当事者が発言する場は増えてきましたが、それでもまだ“届かない声”はたくさんあるようです。当事者はどのような体験をし、どのような思いでいるのか。なかまぁるがたずねます。初回は、埼玉県在住の「ガトクさん」こと渡邊雅徳さん(44)です。

渡邊雅徳さん
渡邊雅徳(わたなべ・まさのり)
1977年、鳥取生まれ。40歳の時に若年性アルツハイマー型認知症と診断される。2021年9月、認知症の普及啓発を担う「埼玉県オレンジ大使」に任命。現在は再就職に向けた活動をするかたわら、若年性認知症の人と家族を対象にしたカフェ「リンカフェ」も開催している。趣味は中国拳法、カホン

――会社員としてお勤めだった40歳の時に、若年性認知症と診断されたとうかがいました。「記憶が失われている」と最初に気づいたのは、どのようなきっかけだったのでしょうか

本当に突然だったのですが、朝起きると、自分はなんの仕事をしているか、どこで働いているのか、どんな人たちと働いていたかといった、「仕事」に関する記憶が一切なくなっていたんです。それは仕事が休みの日だったのですが、休み明けに周囲に相談したところ「病院に行った方がいい」と言われて。同時に、周囲からは「物忘れもあったし、前々から少しおかしいなと思っていた」とも言われました。

最初に行った病院では、「長谷川式簡易知能評価スケール」やMRIで検査を受け、そこでは「おそらく認知症だと思うけれど、詳しい検査はできない」と言われました。紹介状を書いてもらい、検査設備が整っていると言われる北里大学メディカルセンター(埼玉県北本市)で詳しく検査をしてみることになりました。

――記憶がなくなっている、とわかった時は、どのような気持ちでしたか

すごくびっくりしました。焦りましたね。それから、部屋にあった仕事の資料などを見ては「そうか、こんな仕事をしていたんだ」と、少しずつ思い出していった感じです。
認知症にはお年寄りがなるイメージがありましたので、「信じられない」という思いもありました。だって、まだピチピチの40代ですよ(笑)。「それは違うんじゃないか」という気持ちもありました。

渡邊雅徳さん。作業療法士に勧められて始めた打楽器「カホン」。最近、バンド活動もはじめた
作業療法士に勧められて始めた打楽器「カホン」。最近、バンド活動もはじめた

北里大学メディカルセンターでは「脳血流シンチグラフィ」という検査をして、そこで側頭部から後頭部にかけて血が流れていない、ということもわかりました。脳波もいわゆる波形を描いていなくて、横一線にまっすぐに伸びている。そこでも記憶力のテストをしたのですが、なかなか質問に答えられなくて。「若年性認知症」と診断されました。

――「認知症」と診断されてからは、どのように過ごされていたのでしょうか

治療としては、基本的に一日一回薬をのむくらいですね。職場の人に報告すると、「今まで認知症の人と働いたことがないので、どうしていいのかわからない」と言われました。どこか相談窓口はないか、と探してみたところ、そう遠くないところに「認知症の人と家族の会」の埼玉県支部の事務所があり、そこに埼玉県若年性認知症支援コーディネーター(以下、若年コーディネーター)さんがいらっしゃることもわかり、相談することにしました。「認知症と診断されたのですが、今後どのように仕事をしていけばいいのかわからない」といったことを相談したと思います。

――若年コーディネーターさんと話をされたことで、心境に変化はありましたか

助かった、と思いました。当時の職場の人たちも、「どうしていいのかわからない」という状態だったので。
記憶力も日増しにひどくなっているような感覚がありました。「コピーをとって」と言われ資料を渡されたとしても、その瞬間に「いま紙を渡されましたけれど、何ですか?」と思っていましたし、自分から同僚に仕事を頼もうとしても、「この人は誰だったかな?」と。ほとんど仕事にならない状態でした。
当時、不動産に関わる仕事をしており、扱うお金の数字も大きいので、間違えるとダメージが大きい。実際、何度かヒヤッとする場面もありました。

渡邊雅徳さん。撮影中もずっと笑顔でカホンを叩き続けてくれた
撮影中もずっと笑顔でカホンを叩き続けてくれた

若年コーディネーターさんに相談し、会社の上層部のもとに一緒に行ってもらい、話し合いを経て「休職して、様子をみましょう」ということになりました。

――「休職しましょう」と言われた時は、どのような気持ちでしたか

怖くて仕事をしたくないという気持ちもあったので、ここでもまた「助かった」という気持ちが強かったです。休職中は、朝から晩までゲームをして過ごしていました。診断された時は「認知症は治らない」とまでは思ってはいなかったのですが、その頃には「もと通りになるのは難しい」と言われることも増えて。やる気を失い、当時熱中していたゲームのレベルを上げることばかりを考え、毎日を過ごしていました。

――現在は講演活動を行ったり、若年性認知症当事者向けの「リンカフェ」を主宰されたりと、積極的に活動されています。落ち込んでゲームばかりしていた日々から変わったきっかけは何だったのですか

それはもう、若年性認知症当事者の丹野智文さんに出会えたことが大きかったです。若年コーディネーターの方に声を掛けていただいて講演会に足を運んでみることにしたのですが、丹野さんのことは、じつは認知症になる前からテレビ番組を通して知っていて。講演会では、「認知症になってもこんなに話せるの? すごいな」と素直に驚きました。講演会後、丹野さんにサイン本を頂いて、握手もして、ハグをされ、そこでキュンとなりました(笑)。
それまでも、周囲から「講演会をやってみない?」と言われたことはあり、その度に「いや、いや」などと返事をしていたのですが、丹野さんに「啓発活動を一緒にやろうよ」と言われると、不思議と「やりましょう」と答えている自分がいました。そこからは、色々前向きに頑張ってみよう、と思えるようになりました。

※ 後編に続きます

あわせて読みたい

この記事をシェアする

この連載について

認知症とともにあるウェブメディア