「父は認知症になることができた」息子が語る医師・長谷川和夫の姿(上)
更新日 取材/神素子 撮影/伊ケ崎忍
物忘れが気になって医療機関を受診すると、「いまから言う3つの言葉を覚えておいてください」「100から順番に7を引いてください」などの検査を受けることがあります。日本中で広く使われている認知機能の検査「長谷川式簡易知能評価スケール」です。その開発者としても知られる長谷川和夫さんが2017年、自ら認知症であることを公表したのです。「認知症の権威も認知症になる」と驚く人も多かったなか、家族はどう感じたのでしょうか。息子であり精神科医でもある長谷川洋さんにうかがいました。
認知症になれるほど長生きしてくれた。そのことにまず感謝を
長谷川和夫さんといえば、認知症研究の第一人者であり、臨床医として何千人もの認知症の患者を診てきた医師です。以前は当たり前のように使われていた「痴呆症」という呼称の変更に尽力し、当事者を中心にした「パーソン・センタード・ケア」の普及にも尽くしてきた人。
そんな長谷川さんが「実は認知症なんです」と公表したのは88歳のときでした。「あの長谷川さんでも認知症になるのか!」と衝撃を受けた人も多かったのではないでしょうか。実際、当時は新聞などでも取り上げられるほどの話題になりました。
ご家族はその前から知っていたはずですが、認知症と知ったときのショックは大きかったのでは?……と思いきや、長男の長谷川洋さんは「いえ、実を言うと少しホッとしたんです」と言います。え? それはどうして?
「父も私も精神科医です。いろんな場所で『認知症を完全に予防することはできません。誰にでもなる可能性があるのです』と言い続けてきました。でも多くの人は『認知症にならない方法もあるのではないか』『専門家は何か知っているのではないか』と思っているみたいでした。父は50年以上も認知症の研究をしている人で、誰よりも認知症に詳しい日本人だと思うのですが、そんな父でも認知症になった。これが『認知症って誰でもなるんだ』という証明かもしれません。当時私がそう言ったら、父もうなずいて笑っていました」
ニコニコしながらそう話す洋さん、そして笑い合う和夫さん。さすが認知症とともに歩み続けた親子です。
そしてもうひとつ、「父が認知症になるまで長生きしてくれたという事実にも、私は感謝しているんです」と洋さんは言います。
「若くて認知症になる方もいますから一概には言えないのですが、一般的には高齢になってから認知症が始まる人が多いのです。父の物忘れが気になるようになったのは80代の半ばくらいからでしょうか。ある意味、とても普通のことです」
洋さんが高校生の頃、和夫さんが胸の激痛を訴えたことがあったそうです。少ししたら痛みは治まったのですが、「お父さんはこのまま死んでしまうのではないか」と感じた恐怖を、洋さんは今でも思い出すのだそうです。
「父はいま91歳ですが、この年齢になるまで心臓発作も脳梗塞(こうそく)もなく、交通事故にも自然災害にもあわずにいてくれました。おかしな言い方かもしれませんが、父は認知症になることができたのです。つまり、認知症になれるまで長生きができたということです。そのことにも私は感謝しています」
認知症に「なることができた」という表現、長く認知症の取材を重ねた「なかまぁる」編集部でもおそらく初めて聞く表現かもしれません。長谷川親子の認知症への理解の深さを実感しました。
実際、洋さんの目には、認知症になったことで和夫さん自身にも大きなプラスがあったように見えるのだそうです。
「高齢になると、認知症のあるなしにかかわらず、それまで好きだったことを諦めたりやめたりする人は多いものです。父にとってのライフワークは認知症の研究ですが、徐々にその現場から離れてきました。でも今、自分が認知症になったことで、認知症の研究に新たな視点を持つことができました。
しかも認知症になったことでメディアの取材が相次ぐようになり、認知症について自分が今感じていること、多くの人に伝えたいことを話す場をいただいています。これも認知症になってよかったことのひとつではないでしょうか」
確かにその通りかもしれません。「なかまぁる」編集部も、2020年1月に放送されたNHKスペシャル『認知症の第一人者が認知症になった』の和夫さんの姿、そして著書『ボクはやっと認知症のことがわかった』から学ぶことが多くありました。
そう話すと、洋さんも「実はぼくも勉強になったんです」と言います。
「特に父が言った『認知症が始まったことで、自分の中の“確かさ”が揺らぐ』という言葉には驚きました。
認知症の方は何度も同じことを話したり、質問したりしますが、それは短期記憶障害によるものだと思われています。でも父の言葉を聞いて、やはりそれだけではないのだな、と。自分の中にある『確かなこと』が失われていくことが不安だから、繰り返し尋ねたり、何度も確認したりする。根底にあるのは自分自身への不安感なのだと思うと、私たち周りの人間の対応の仕方も違ってくるのかもしれません。たとえば、聞かれなくても同じことを何度も話してあげることも必要かもしれませんし、それが認知症の方の不安感の解消にもなるのだということもよくわかりました」
認知症について深く知る医師が認知症になる……、それは決して「皮肉な運命」などではなく、医学界にとって価値ある臨床報告につながることなのではないでしょうか。
「宅配便の人が『先生をお届けに』息子が語る父・長谷川和夫の姿(下)」に続きます。
- 長谷川洋(はせがわ・ひろし)
- 1995年聖マリアンナ医科大学卒業、同大学神経精神科入局。2003年より同大学東横病院精神科主任医長として勤務。06年に長谷川診療所を開院。精神保健指定医、日本老年精神医学会専門医、日本精神神経学会専門医。現在、聖マリアンナ医科大学非常勤講師、東京医療学院大学非常勤講師、川崎市精神科医会理事、神奈川県精神神経科診療所協会副会長。著書に「よくわかる高齢者の認知症とうつ病」(父、長谷川和夫氏と共著:中央法規)、「認知症のケアマネジメント」(石川進氏と共著:中央法規)がある。