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介護の裏ワザ、これってどうよ?

認知症のばーちゃんの「大丈夫」は魂のルフラン説 これって介護の裏技?

青山ゆずこです! 祖父母がそろって認知症になり、ヤングケアラーとして7年間介護しました。壮絶な日々も独学の“ゆずこ流介護”で乗り切ったけれど、今思えばあれでよかったのか……? 専門家に解説してもらいました!

その不安さは、果てしなく広い海で足場がどんどん崩れていくよう・・・

壊れたレコードのように「大丈夫」を繰り返すナゾ

「大丈夫、大丈夫。私は大丈夫だ」。これは、常にばーちゃんが呟いている言葉です。
前回は「私は仲間はずれにされている」「みんな私をいじめる」という被害妄想の愚痴が多いというお話をしましたが、それとは比べものにならないくらい、この「大丈夫」という言葉は息をするようにいつも使っています。

朝起きて挨拶をした瞬間も、買い物にでかけているときも、トイレもお風呂も。感情が爆発して暴走しているときも、ばーちゃんはこの言葉をしょっちゅう叫んでいます。最初は「また変なことを言っているのかな」と気にも留めなかったのですが、あまりにも頻繁に言っているので直接ばーちゃんに言葉の真意を聞いてみました。

……それでもやっぱり、返ってくる言葉は「大丈夫」の一言だけでした。
夫婦そろって認知症のじーちゃんばーちゃんと一緒に住み始めた当時は、わたしはろくに認知症関連の本も読んだことがないような“超・ど素人”でした。でも体当たりの介護を続ける中で、そんな素人同然のわたしが一番大事にしていたのは「自分が相手だったら……」を想像してみることです。
知識がないからこそ、頭の中で相手になりきっちゃう。すると、それまで不可解だった言動も、なんとなく「たしかに、自分でもこうするかも」と理由が見えてくることもあったり。

「大丈夫」は、自分が自分でいられるための必死の言葉だった

頭の中でばーちゃんになりきって、「なんでばーちゃんはあんなに『大丈夫』を連呼するんだろう」と考えたとき、ある想いがわたしの心に芽生えました。
それは、もし自分が認知症だったら「自分のことを肯定してあげられるのは、自分だけ」と思ってしまうかもしれないということ。

今まで当たり前のようにできていたことができなくなった、その理由もわからない、それまでの思い出も、家族の顔もぼんやり遠くに感じてしまう。今、隣で笑っている人どちらさまだろう。わたしは誰だろう……あれ? 目の前にいた人が、凄く悲しそうな顔をしている。でもわたしは何もできない。なんでそんな顔をしているんだろう。わたしが原因なのかな。でも、やっぱりわたしは何もできない。わたしはわたしが分からない。

これは相手になりきって考えた想像ですが、もし本当にばーちゃんがこんな風に考えているなら、「大丈夫、大丈夫」とひたすら自分を肯定してあげることで、必死に自分を保っていたのかもしれません。つまりばーちゃんの「大丈夫」という言葉は、自分が自分でいるための、心のバランスを保つための唯一の方法なのかもしれない。
以前、わたしがばーちゃんに物を投げられまくった回でも、ばーちゃんはこんなことを言っていました。
「私は、私が分からなくなっちゃったんだ」
「私の頭は、おかしくなっちゃったんだよ……」

もうなんだかやるせなくて、悲しくて。せめてわたしにできることはないかなと考えたときに思いついたのが、相手より先に相手を肯定しちゃうことでした。
ばーちゃんが「だいじ………」と言いかけたら、速攻で「うん、ばーちゃんなら大丈夫!」を連呼する。「何があってもあたしがついてるからね!」「大丈夫しか考えられない」「何があっても大丈夫だ!」と、根拠なんてなんにもないんですけど、自分では応援団のつもりで声をかけていました。
ばーちゃんの私設応援団。だって一人で心細いのだから、明るく大きな声で応援してくれる人がいたら、心強いかなって思ったのです。

こんな感じでやたらめったら応援していたら、ばーちゃんがボソッと「……あんたは何なんだい(笑)」と笑いました。あの、めったに笑わないばーちゃんが。それだけでめちゃくちゃ嬉しい。

認知症の方々は、想像を絶する不安と戦っていた

わたしのこんな想像と、応援がどこまでばーちゃんの支えになれていたのか分かりませんが、「大丈夫」という言葉の裏にはやはり不安があったのでしょうか。
東北福祉大学福祉心理学科の教授で日本認知症ケア学会の理事、そして『認知症になるとなぜ「不可解な行動」をとるのか』(河出書房新書)の著者である加藤伸司先生にお話を聞きました。

「ゆずこさんのおばあさんのように、認知症で『自分がばかになっていく』『自分が壊れていく気がする』と訴える方もいます。そのことから察してみても、みなさん相当な不安を抱えているようです。今まで当然のように出来ていたことができなくなって、自分でその原因を追究していても理由は分からない。でも一方で、不安はどんどん強くなっていってしまう。認知症の初期では、理由が分からない自分自身の異変や、「自分としたことが、一体どうしてしまったんだ」と、恐怖感や焦燥感から自身や意欲をなくし、うつ状態になってしまう方もいます。
おばあさんも相当な不安を抱えていたのでしょうね。そこでゆずこさんが『もし自分が認知症の方だったらどうだろうか』と考えたのは大正解です。相手の立場に立って考えることで、少しでもその内的世界に近づけるのではないかと、僕は考えています」

ずっと言い続けているんですから、当事者だって自分を肯定し続けることに疲れてしまうこともあるかもしれません。そんなときは相手に代わって、嫌というほど言い続けてあげる。
学生時代は、バスケ部と剣道部で仲間に応援された経験を生かして、ばーちゃんの応援歌を作り、家事をしながらその歌を鼻歌で歌ったりしていました。
「ファイトーファイトーばーちゃん」
「シュートで決めよう!ばーちゃん」
「大丈夫!一人じゃないよー!一本取ろう!」

「そう大丈夫!」「ばーちゃんな一シュー!」

今思えば、わたしはほとんどベンチや補欠だったので歌詞もうろ覚え、内容はめちゃくちゃでした。それでも、歌う度にあきれた顔でほほ笑むばーちゃん。
あきれられたって、不安そうな顔より笑顔が嬉しいんです。

加藤伸司先生
加藤伸司先生
東北福祉大学総合福祉学部福祉心理学科教授。認知症介護研究・研修仙台センターセンター長。日本認知症ケア学会副理事長。近著に『認知症になるとなぜ「不可解な行動」をとるのか』(河出書房新社)『認知症の人を知る―認知症の人はなにを思い、どのような行動を取るのか』(ワールドプランニング)など

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