実家の母が認知症に ひとり娘が撮る家族の「正解のない日常」とは
岩崎賢一
11月3日の東京を皮切りに、全国各地でセルフ・ドキュメンタリー映画「ぼけますから、よろしくお願いします。」が公開されます。舞台は広島県呉市。老夫婦と、東京で仕事をするひとり娘の物語です。出演・監督・撮影・語りを兼ねる信友直子さん(56)は、「認知症になったら終わり、ではないことを知ってほしい」と語っています。
ありのままの3人家族のストーリー
ひとり娘の直子さんを東京の大学に送り出したあと、呉市の平屋建ての一軒家では、夫婦が静かに暮らしていました。独身の娘の帰郷は、年2回のペース。そんな中、2014年お正月に実家に帰った直子さんは、母、文子さん(89)の異変に気づき、一緒に病院へ向かいます。診断結果は、認知症。まだ初期とのことでした。
父の良則さん(98)は耳が遠くなってきていますが、まだ文子さんの症状が軽いことから、老夫婦2人での生活を続けることにします。直子さんは2カ月に1回程度に帰郷の頻度を増やし、良則さんの「老老介護」、直子さんの「遠距離介護」が始まりました。
映画の中盤では、床に座り込んだ文子さんが、カメラを向ける直子さんに、苦しそうな表情で、こう言葉を投げかけています。
「どうして、どうしてかね」
「わからん、わからん、わからん。ほんまにどうしたんかね。おかしいね」
「迷惑かけるね」
直子さんは、「そんなことない。家族じゃない」と語気を強めて返しますが、文子さんは「まあ、しょうがないね。ごめんね」とため息をついていました。
新年のあいさつが、このタイトルを生んだ
直子さんは、「この映画は母と私の共同作業」と言います。淡々と家族を追うカメラは、認知症と向き合うことになった親子の実態を赤裸々に映し出します。
2017年のお正月。呉に停泊する自衛艦が新年を祝って一斉に鳴らす汽笛を、親子3人で聴く場面があります。文子さんが直子さんと良則さんにかけた言葉が、印象的です。
「ぼけますから、よろしくお願いします」
そう、映画のタイトルは、ここからとられたものです。
直子さんは「認知症の人たちが、家族に迷惑をかけていると、苦しく思っていることを、母の言葉を通じて伝えたかった」と、映画制作の狙いを語ります。
取材記者のこだわりと反響
この記事を書いている私は、20年近く、医療や介護の現場や政策を取材してきました。いつの時代も、みんな元気なうちは、こうしたテーマに関心が低く、家族や身近な人が病気になったり、老いたりして初めて、関心を持つようになるのがほとんどです。
私の両親も、認知症ではありませんが多少の介護は必要です。ただ、両親の自立心に甘え、時々、遠距離介護でなんとかしのいでいる世の子どもたちの1人です。「ぼけますから~」に関心を持ったのは、当事者である直子さんが家庭用ビデオカメラで撮ったセルフ・ドキュメンタリーだからこそ、きれいごとで終わらせることなく、認知症の本人やその家族のリアルな姿が映し出され、共感し、考えさせられると感じたからです。
作品を通して、そんな「正解のない日常」が垣間見えたからこそ、直子さんにロングインタビューをし、呉で暮らすご両親にも会いたくなりました。そして、一人っ子ならではの難しさを、直子さんがどう捉え、どう乗り越えようとしているのかも、知りたくなりました。
実は、誰もが予想できなかったことが起きていました。認知症で在宅介護を受けていた文子さんが、映画完成後の9月30日夜、脳梗塞で倒れてしまったのです。
ロングインタビューに続々とコメント投稿
私が取材で呉を訪れたのは10月9日でした。「認知症とともに生きる」と、家族の覚悟ができていても、ある日突然、また別の病気が見つかり、さらに事態が複雑になるかもしれないということを、改めて感じさせられました。
このときの取材内容は、先日、withnewsを通じてYahooに配信され、多くのコメントが寄せられました。
「あるある」から考えよう
この映画には、「一人っ子」、「老老介護」、「遠距離介護」、「介護離職」など、介護をする人たちにとって「ある、ある」と声を挙げたくなるような「正解のない問いかけ」がちりばめられています。記事に寄せられた100件近いコメントも、その大半が自分の経験と重ね合わせ、考えさせられたという内容でした。
「在宅で」というけれど・・・
共感が多かったコメントの一つを紹介します。
「母の場合、声をあげたり、不潔行為を起こしたりして施設にいられなくなり、最後は精神科で亡くなりました(中略)この状況をなかなか受け止められなかった家族ですが、スタッフの皆さんが明るく献身的に尽くしてくださり、穏やかで温かいひとときを家族で共有することができました」
このコメントでは、直子さんにも、父を説得したうえで施設への入所をすすめていました。今、医療や介護の世界は、「連携の時代」といわれています。患者側が、病状や家庭環境などに応じて医療機関や介護施設、在宅介護サービスと、利用機関を移っていく仕組みです。
しかし一方で、病院や施設が事実上、患者を選ぶようなことが一部の実社会では起きています。「連携」は、当事者にとってはワンストップではないため、不安や負担感も募ります。そしてコメントにもあるように、認知症患者を精神科で看取ることへのためらいもあります。
「完全看護」というけれど・・・
施設や病院を利用できても、思わぬ問題に直面することがあります。こんなコメントもありました。
「短期間の入院の際、環境の変化によるせん妄で攻撃的になり、病院から家族が付き添って欲しいと言われました」
医療や介護分野を取材していると、高齢者、特に認知症の患者が別の病気やけがをしたときに、「付き添いをもとめられました」「個室の利用を求められました」というケースが時々あります。これは、子どもが一人っ子でなくても、遠距離介護でなくても、家族にとっては大きな問題です。
「介護も自己責任」の時代?
「生きるためには仕事をしなければなりませんが、24時間面倒をみることになると、今まで通りに仕事ができなくなり、経済的にも精神的にもダメージが大きいです」
「簡単に施設に入るって言われる方が多いですが、簡単に入れる人ばかりではないと思います。施設の利用料に加え、食事代、おむつ代などの費用が毎月かかります。それを何年間も安定して支払うことが必要だからです」
「信友さんのお父さんが言う『身内のことは身内で』を実現したかったら、子どもは4人ぐらい育てて介護の負担を分散させるか、集中して負担してくれた子に多くの遺産を残か、といったことぐらいしないと成り立たないと思います」
介護の担い手たちの経済面での負担の重さを指摘するコメントにも多くの共感が集まりました。
介護される親が蓄えておくべきなのか、子どもが一部を負担するべきなのか。また、子ども世帯に、高校や大学へ進学する孫たちがいれば、自由になるお金にはさらに限りがあり、葛藤を抱えています。
75歳以上人口が急増する一方、介護スタッフの人手不足も日本では深刻な問題です。介護スタッフ不足で、サービスを縮小している事業者も少なくありません。
「母がアルツハイマー型認知症と診断され、約2年が経ちました。私は結婚もできず、一人っ子で両親と同居しています。この先、どうすればいいか、少しずつぼけていく母を見ながら悩んでいます」
こういうコメントがありました。介護離職は、アラフィフ(50歳前後の世代)にとって、ひとごとではありません。
共倒れになりそう・・・
共倒れにならないようにすることが重要です。
「だんだん認知症の症状が進んでいく親を受け入れたいと思いますが、受け入れられずに怒鳴ってしまう自分が嫌になってしまいます」
「一番必要なのは、当人、家族、それぞれの理解者がどれだけいるかに尽きると思います」
介護する家族が抱え込んで燃え尽きてしまわないように、レスパイト(息抜き)としての、デイサービスやショートステイの利用も重要になってきます。また、苦しいことがあれば、それを吐露できる家庭や地域、職場の環境も重要です。
直子さんと両親の映像は映画化の前に、テレビの情報番組でまず放送され、反響を呼びました。ただ当時、インターネットでは、(認知症の親を)「さらし者」にしているという批判もありました。
家族が認知症であることは「隠すべきこと」なのでしょうか。認知症って、恥ずかしいことでしょうか?
「長生きしすぎ」
「本当に難しい問題。伴侶、子ども、親族、そして人様に迷惑をかけてまで生きたくない。あくまでも自分なら」
こんなコメントもありました。でもそれは、あまりにも悲しい社会だと、私は思うのです。好きで認知症を発症した人はいません。記事を読んだ人が、SNSでこうつぶやいていました。
「家族の心情はどのマニュアルにも載っていません。日々複雑な思いと向き合い続けます。ただ単に福祉サービスを利用すればいいというものでもありません」
そう、だからこそ、「正解のない日常」なのだと思います。
※コメントはヤフーニュースなどに配信したwithnewsの記事「認知症になっても続く『正解のない日常』ひとり娘が映画にした理由」に対して寄せられたものやSNSに書き込まれたものを、記事中で紹介するため、趣旨を変えない範囲で一部修正を加えた上で使用しています。