戦争手記の朗読が閉じた心を開く認知症リハビリテーション
取材/石川美香子 撮影/上溝恭香
静かな病院の一室に『永遠の0(ゼロ)』(百田尚樹著、講談社)の一節が響き渡ります。一人の読み手による朗読劇とはいえ、ひとつの舞台を見ているかのように、時には声を震わせながら読み上げられる登場人物のセリフや描写に、ハンカチで涙をぬぐう人の姿も。
仙台市太白区の仙台富沢病院では、地元の俳優・演出家の前田有作さんが週に1回病院を訪れ、こうした朗読劇「演劇情動療法」をおこなっています。認知症リハビリテーションの一つです。
この日は9人ほどの参加者が約1時間の朗読を聞き入りました。朗読後にもうけている「語らいの時間」では、物語の余韻が残るなか、誰ともなくぽつりぽつりとかつての戦争体験を語りはじめます。
「我々には本当に感じられますよ……。先生が読んでいる世界観がその通りだな、と。中学時代に学校で軍隊教育を受けました。女性も軍需工場で鉄砲を作っていました……」
「いまは信じられないぐらい、いい時代ですよね」
誰かのつぶやきに皆が静かにうなづきます。
前田さんは最後に「今日もいろいろと教えていただいてありがとうございました」と参加者たちに深々と頭を下げ、朗読の時間を終えました。なぜ前田さんが「教えていただいて」と言うのか、それは後ほど。
同院が演劇情動療法をスタートして5年目。それまではデイサービスを中心におこなっていた朗読劇を、2018年7月からは病棟患者向けに開催するようになりました。
「戦争の時代に生まれ育った方が多いので、その体験を思い起こす戦争手記や小説が一番感動してくれるようです。デイサービスでは落語もやったんですが、皆さんの心を動かすのは“笑い”よりも断然“悲しみ”。それも感謝の念が含まれた悲しみの話とでもいうのでしょうか――」(前田さん)
国を守るために命を落としていった先祖たちへの感謝の思いが根底に流れている物語こそが、認知症当事者の心の奥深くに届くのだと前田さんは言います。
前田さんとともに演劇情動療法の普及に努める同病院統括理事長で医師の藤井昌彦さんは、「脳には計算や記憶に関わる大脳新皮質という部分があるのですが、認知症になるとこの機能が低下します。一方で、共感力や感情をつかさどる大脳辺縁系は機能が落ちないので、涙を流すほどの悲しみや喜びといった情動で刺激を与え続けると、BPSDが軽減することがわかっています」(藤井理事長)
前田さん曰く、当事者は決してお世辞を言ってくれないのだそう。
「皆さんは本能で生きているというか直感が鋭くなっているので、とにかくハラを読まれます。取り繕っても感情が伝わってしまう。本物でしか感動してくれない一番厳しいオーディエンスですから、本気で演じるしかない」。
加えて藤井理事長は、「本物の芸術の力が必要だから、プロの役者さんによる演劇であれば、当事者の心を動かすことができる」と言います。
BPSDの症状がコントロールできなくなっている人の場合、薬で怒りなどを抑制すると、同時に笑顔や感謝といった情動機能も低下してしまい、治療に限界が見えるのだそう。結果、「一生懸命介護しているのに感謝してくれない」と、介護する側の人たちの不満も募ってしまうという悪循環に。
そもそもこの療法に訪れている当事者の多くは、何かしゃべると「変だ」などと周囲に馬鹿にされたりすることから、普段は心を閉じ、黙っている人も多いとか。
「自分を否定されずに共感してもらえる場があれば、当事者も安心して自分を出せます。『語らいの時間』がそのきっかけになってくれれば」とは前田さん。
そして、こう付け加えました。
「むしろこちらが、朗読を通して人生の先輩である皆さんからたくさんのことを学ばせてもらっています」
当事者をリスペクトしつつ、エールを送り続けます。