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介護の日 特別セミナー ~共に生きる 認知症セミナー~ 「新しい認知症観」を語り合う

セミナーの登壇者。左から奥村奈津美氏(司会)、町永俊雄氏、安藤優子氏、恩蔵絢子氏、鎌田松代氏
セミナーの登壇者。左から奥村奈津美氏(司会)、町永俊雄氏、安藤優子氏、恩蔵絢子氏、鎌田松代氏

「介護の日」の11月11日、「共に生きる 認知症セミナー」が開催されました。認知症になっても「できること」や「やりたいこと」はある。住み慣れた地域で、仲間とつながりながら、自分らしく暮らしていくことができる——こうした「新しい認知症観」を社会に広めていくことが求められています。“認知症と共にある社会”に向けて新たな扉を開くために、私たちに何ができるのでしょうか。認知症の母親の介護を経験したジャーナリストの安藤優子さんによる基調講演と、脳科学者で『認知症介護のリアル』などの著書がある恩蔵絢子さん、ファシリテーター役の町永俊雄さんも加わって行われたパネルディスカッションの様子をご紹介します。

セッション1 基調講演「忘れたっていいじゃない 認知症の母との15年」

ジャーナリスト 安藤 優子氏

ジャーナリスト 安藤優子氏

明るく好奇心旺盛な母に異変

私の母は大正14年11月8日生まれ、ドレスメーカー学院で洋裁を学び、結婚して2女1男をもうけました。私は末っ子で、姉と兄がいます。明るい母を一言で示すなら、好奇心の塊です。旅行が好き、買い物が好き。料理は調理師の免許を取ってしまうくらいプロ級。毎日家族のために心を込めた手料理を用意するのが、母の家族への愛情の見せ方であったと思います。そして新しいもの好きで、ヨガに、スポーツジムにと通い、自宅に近所の方を集めて料理サロンを開催するなど大変社交的な母でもありました。

旅先のイタリアで母・安藤みどりさん(左)と撮影した写真
旅先のイタリアで母・安藤みどりさん(左)と撮影した写真

最初の異変が現れたのは74~75歳ころのことです。今まであれほど楽しみにしていたお買い物も億劫(おっくう)に、ジムに行くのも億劫に、大好きな料理もやろうとしない、なにもかも億劫がる様子が顕著になってきました。私自身は「それなりに年齢も重ねているし、面倒臭くなることもあるよね。年相応」くらいにしか捉えていませんでした。
やがて母はだんだん攻撃的な言葉を吐くようになり、ある日、決定的なことが起こりました。マンションの8階に夫婦で暮らしていたのですが、ベランダに出てお花に水をやろうとしたら突然、「飛び降りて死んでやる!」と父に向かって言ったそうです。しかし当時父は、私たちにこのことを言いませんでした。

母の生活は父のカバーで成り立っていた

そうこうしているうちに、夜中にトイレに起きた母が転倒。やせ形の父では母を助け起こすことができずにそのまま一夜を過ごすことになるということが起こりました。兄姉と私には翌朝、父からの電話で知らされました。駆けつけた姉が救急車を呼びましたが、エレベーターにストレッチャーが入らない。急きょはしご車が出動し、マンションじゅうが大騒ぎになってしまいました。
結局、母は外傷もなく病院から帰宅しましたが、世間体を気にする人でしたから「ご近所に恥をさらした」といたたまれなかったのでしょうね。1週間自室に引きこもり、誰とも口をきかない状況に陥りました。これが、決定的に「母がおかしい」と思った出来事でした。
すでに母はいろいろなことができなくなっていたのですが、実は、父がそれを1人黙々とカバーしていたので、私たちは知らなかった。それまで父はキッチンに入ったこともないような人だったのですが、あるとき、私が泊まりに行き、朝起きたら、父が母の分も含めてすべて朝食を用意していました。私は本当に腰を抜かして驚きました。とんでもなく父に依存した生活が始まっていたんですね。
けれど、私はそうした変化を受け入れようとしませんでした。高齢者をよく診ているお医者様に相談をしたこともあり、「1度でいいからクリニックに連れてきて」と言われたのですが母は「自分の体のことは自分が一番よくわかっている」というのが口癖で、大変な医者嫌いでしたので、かたくななまでに病院には行きませんでした。
ですので、認知症の診断が出たのは、この後、高齢者施設に入所してからになりました。

父の入院で子どもたち中心の介護がスタート

その後、母の頼みの綱だった父に、膵臓(すいぞう)がんが見つかりました。手術でおなかを開けてみたらすでに転移していて末期の状態で、何もせずにおなかを閉じ、余命半年と宣告されました。父は入退院を繰り返すようになり、母の生活は、私たち娘の介護とヘルパーさんのお世話に委ねられることになりました。
当時、平日の夕方のニュース番組を担当していた私は、生放送が終わると片道1時間半かけて父の病院へ。金曜日は自宅に戻らずに母の家に行って金曜、土曜と泊まり、掃除をして常備菜を作って冷蔵庫に入れて日曜の朝自宅に帰るといった生活を3年くらい続けました。
姉や兄は所帯を持っていましたので、母の面倒ばかり見ていられない。身軽と思われていた私が母と過ごす時間が一番長かったことになります。

自宅介護は限界 噓をついて施設へ

お世話してくださるヘルパーさんと母の関係は、非常に難しかったです。母にとってキッチンは聖域です。そこに突然赤の他人が入ってきて、自分が大切にしてきたお鍋や食器を使い、冷蔵庫を開けて料理をつくるわけですから、「あの人は一体なんなんだ!」と我慢ならない。非常にネガティブな感情にとらわれていて、私たちが知らないところでヘルパーさんを次々とクビにすることが続きました。
けれど、私自身、海外取材もあり、災害で突然現場に飛ばなければならないこともある。体力的にも精神的にも「いよいよこれはダメだ」と思っていた時に、父が亡くなりました。
私たちにとっては、残された母をこれからどうしていくかが、何より大きな問題となりました。犬好きな父が飼っていた犬も残されましたが、母はどんどん足元がおぼつかなくなって犬を散歩に連れていくことも、犬の排泄(はいせつ)物を処理することもできなくなりました。私が作り置いた常備菜も腐って冷蔵庫に入ったままで、家の中はもうぐちゃぐちゃです。母のひとり暮らしはもう無理ということで、民間の高齢者施設を探しました。

入所にあたり、母には「水道工事をするから1週間だけ別のところで暮らしてほしい」と噓(うそ)をつきました。でも元々頭の良い人なのですぐに気づかれてしまいました。あの時の荒れた母の姿を思い出すと心が痛みます。親の面倒は子どもが見て当たり前という価値観で生きてきた世代ですから、「苦労して育ててきた子どもたちになぜこんな仕打ちをされるのか」と罵倒されました。自宅に帰りたいということで、2度ほど施設から脱走もし、施設になじむまでに半年以上かかりました。

懸命に生きてきたんだから 細かいことは忘れたっていい

戦時中だった母の青春時代
戦時中だった母の青春時代

私が言いたい最大のテーマは「忘れたっていいじゃない」ということです。母は一番キラキラしていた青春の女学校時代を国防服かモンペ姿で過ごしました。結婚し、子育てをし、舅姑に仕えて看取り、今度は自分が楽しい老後を過ごそうとしていた時に父が亡くなり、自分は認知症になったわけです。大変な思いをして懸命に生き抜いてきたのだから、今日が何月何日なのか、自分がどこにいるかなんて、忘れたっていいじゃないかと。母に限ったことではなく、一人ひとりの人生にたくさんの歴史があり、いろいろなことを乗り越えて頑張って生きてきた。そして認知症になった。世の中が老いることに対して不寛容になっているのではないか。そんな気がしています。

セッション2  パネルディスカッション「新しい認知症観」を語る

Session2『新しい認知症観』を語る ファシリテーター・町永俊雄、出演者・安藤優子・恩蔵絢子

町永 今年の1月1日に「共生社会の実現を推進するための認知症基本法(認知症基本法)」が施行されました。認知症と共に生きる社会は当たり前のことなのだというメッセージが込められているような気がします。そこで考えなければならないのが「新しい認知症観」です。介護経験を持つ脳科学者の恩蔵絢子さんにも加わっていただき、1人1人の新しい認知症観を自分の中に植え付けることが新しい人生観や社会観につながるというお話をしていきたいと思います。
講演で安藤さんは、「認知症の母」ではなく「私の母」を語っておられたところに大きな意味があるような気がしました。そのあたりはいかがですか。

安藤 まず娘と母親は、関係性がとても近い。だからやはり、私は好奇心旺盛な母が違う人間になっていくように、最初は思ったのです。明るくみんなを楽しませる母は一体どこに行ってしまったのだろうと。もしかしたら息子よりも娘のほうが同性として自分をかぶせてしまうので、なかなか受け入れがたいのかもしれません。

安藤みどりさんが描いたアンスリウムの絵
安藤みどりさんが描いたアンスリウムの絵

町永 認知症になった母を安藤さんが、自身のスティグマ(偏見)をあらわににしながらも受け入れるまでのプロセスの中に、お母さまが描いたアンスリウムの絵があるそうですね。

安藤 臨床美術という日本で開発された回想療法で、母が描いたものです。臨床美術はそのものズバリを写生するのではないのです。母はハワイが好きでしたので、臨床美術士さんがアンスリウムの花を持ってきて窓を開けてハワイアンを流してアルバムなどを見て、母にとってのハワイの思い出をたどっていく。1時間のセッションのうち50分は回想する時間で、最後の10分間で一気に描くのです。
認知症になった母はそれまで否定的な感情しか口にしなかった。母があれほど攻撃的になったり職員の方に暴言を吐いたりした正体は、旅行に行けない、お料理もできない。「できない」の嵐で、自己否定の塊になっていたわけですね。ところが、このアンスリウムを描いた時に初めて母は「よく、デ・キ・タ!」と、自分で自分を褒めて自己肯定したのです。ここから母は穏やかになっていきましたね。
そして「母がそこにいる」とあらためて実感できたのは、コラージュなんです。「ハワイ」という題名で、真ん中にチョコレートが貼ってありますよね。「これはなんですか?」と母に聞いたら、「優子へのお土産だ」と。明るい母そのもので、「なんだ、母はここにいるじゃない」と思え、泣きました。母はいろいろなことができなくなったけれど、ここにいることが確認できた。そんなとても大切な絵です。

安藤みどりさんが制作したコラージュ「ハワイ」
安藤みどりさんが制作したコラージュ「ハワイ」

町永 これは安藤さんが獲得した新しい認知症観ですね。お母さまを8年間介護した恩蔵さんも、安藤さんと同じような経験をたどっていますよね。

恩蔵絢子氏
恩蔵絢子氏

恩蔵 全く同じですね。最初は「どうして料理ができなくなっちゃうのだろう。なんで、なんで…」という感じでしたが、私は脳の研究をしていたので脳の画像を撮影してみたら記憶をつかさどる海馬にちょっと萎縮があるだけで、海馬以外の脳領域の方は大きく残っていました。記憶が定着しにくく出来事を言葉で表現するのは苦手になっていたものの、言葉以外の表現は昔とまったく変わらない。母の場合は音楽で、素晴らしい歌い方をした時に「母はここにいる」と気づいたのです。しかも感情の領域はかなり残っていて、母は去年亡くなったんですけれども、娘への愛情も音楽への愛情も最後まで変わりませんでした。
こうしたことを母以外にも対象を広げて研究しました。認知症のある方100人以上に一人ひとり細かく話を聞いたインタビューの感情分析を担当したのですが、一番の驚きは、認知症の人が最も強く感じているのは「幸せの感情」だったことです。一方で、一般の人は認知症の人は「恐怖」を一番強く感じて生きていると思っていたのです。逆だったわけです。それでは、どうやって認知症の人が幸せを感じているかというと、ご本人がさまざまな工夫をしている。たとえば昔の思い出を繰り返し話すのは、楽しかったことを思い出すことによって現在の不安を消しているわけです。努力して幸せを獲得していることがわかって、私たち一般の人のイメージとは全然違っていることが明らかになってきました。そういうことを通して、自分の中にある認知症のイメージを変えてきました。

認知症の人が最も強く感じているのは「幸せの感情」だった/怒り、嫌悪、恐れ、幸せ、悲しみ、驚きは、それぞれどのくらい強く表れていましたか?(13人の研究者・専門家による読み込み)
認知症の人が最も強く感じているのは「幸せの感情」だった

町永 散歩のときに、変わらないお母さまの姿を感じとったそうですね。

恩蔵 その頃、母は海馬の萎縮が大きくなっていて、私の名前を呼んでくれることは全然なかったのですけれども、散歩に出かけたときに向こうから歩いてくる親子の姿をじっと見たあと、私に向かって「あやちゃん」と呼んだのですね。ああ、母の中に娘の私はいるのだなと感じました。

安藤 認知症になって海馬が萎縮しても人格は奪われることはない。運動能力としてできないことが増えることが私たちの目を曇らせている気がするのです。私たちの目にはいつも全てができる母しか見えていなくて、全部できなくなったとしても目の前にいるのが母なんだよという、一番大切な部分を見えなくしてしまう。それは多分、認知症になったら全て忘れてしまって人生のエンドがくるような、認知症に対する恐怖のイメージがあまりにも強調されすぎているからだと思います。

町永 お母さま自身は変わらないけれど、お母さまを見る安藤さんの目がすごく変わったということですね。

安藤 私、ホーム(高齢者施設)に入所後のことで2つだけ言いたいことがあって、母は男性の介護職員さんに入浴介助してもらうことを拒否しました。もう1つは、食事のときに服を汚さないようにプラスチック製の前掛けをつけるのですけれども、母はそれをつけたら頑として口を開かなかった。そこにすごく母のプライドがあって、最後まで譲れない一線があることを感じました。
一方でホームの介護職員の方が「認知症を患った安藤みどり(母の名)」ではなく、「母がどういう人生を送ってきたのか」を積極的に知ろうとしてくださったのですね。すごく忙しい中で、命を終えていく母にリスペクトを見せてくださったことは、母の心を開くのに大きな意味があったと感謝しています。私たちは職員の方たちの善意に頼り切ってしまっていますが、行政には、現場の大変さについて軽減するようにもっと取り組んで欲しいと思います。

町永俊雄氏
町永俊雄氏

町永 家族だけで介護をしていると抱え込みすぎて共倒れになってしまう。恩蔵さんのお母さまも最後は有料老人ホームに入所なさいましたが、葛藤はあったのでしょうか?

恩蔵 すごく葛藤しましたが、お任せしました。母と娘は一番共感しやすい関係性なので、母が自分と一体であるかのような感情を抱くと、自分の思うように母が動いてくれないと怒るということが起きてしまう。「母は私とは違う」と自覚するためにも離れる時間を大事にしました。また、母にも社会というものを持ってほしかったので、昔のお友達などいろいろな助けを借りました。

町永 どうやって外部の介護の力を借りるかは、とても大事です。安藤さんは自分の中でどう区切りをつけたのでしょう。

安藤 もう母が1人で暮らすことは無理だとわかっていたのです。その一方で「自宅は自分の城だから動きたくない」という母の気持ちを考慮してあげたい思いもありました。また、「子どもが親の面倒をみて当たり前」という刷り込みの中で育ってきて母の言葉に振り回されて冷静さを欠いたこともありました。ホームに入所させた後、母の「帰りたい、こんな仕打ちをして」という罵詈(ばり)雑言の中で、一回だけ「私がお母さんと一緒に暮らすよ」と言ってしまったのですね。そうしたら長年うちにお手伝いに来てくれている元看護師長の女性が、「一時的な感情でそういうことは言わないでほしい。あなたが突然外国に行かなければならなくなった日の夜はどうするのか」と言ってくださった。第三者が冷静にそういうことを言ってくださらなければ、感情に振り回されて誤った決断をした可能性があったと思います。
日本は家庭内自助がずっと強調されてきました。しかも家族が認知症だとは人様に言えない、とても恥ずかしいことだというような社会的な風潮がまだ残っていて、それをつまびらかにして誰かに助けを求めるのはどうなのかという社会通念みたいなものを私は感じました。行き過ぎた自助は家庭を壊すし、共助も公助も全てがバランスよくいかないとダメなんじゃないかと思います。

町永 「忘れたっていいじゃない」という社会になっていないからみなさんのほうに介護が押し付けられているところがある気がしますが、いかがですか。

安藤 完璧な老いができる人なんてこの世の中に何人もいないと思うのですね。不完全なものに対してあまりにも社会が不寛容な気がするので、私はあえて「忘れたっていいじゃない」とこれからも発信していきたいと思います。

町永 さて、視聴者の皆さんからも事前に質問いただいていますのでお答えいただこうと思います。1つ目は「仕事との両立は大変だったと思います。どうやって乗り越えたのでしょうか」です。

安藤 積極的に自分だけの時間を作りました。具体的には運動する時間を確保すること。仕事のための体力作りでもあるし、母との関係性を良好に保つためにも、仕事に冷静に向き合うためにも必要だったので、寝る時間を削ってでも朝早くからジムに行って運動して自分の時間に没頭することを日課にしていました。

恩蔵 自分にコントロールできることと、できなことを分けるようにしました。母は別人格ですから、私ではコントロールできないところがある。一方、例えば朝ランニングをすれば、必ず「気持ちいい」という報酬が得られます。こうした自分にコントロールできることを一生懸命やって、コントロールできないところに向き合えるようにしました。

町永 もう1つ、ご家族を介護している方から、「イラッとしないためにはどうすれば良いか。気分転換はどうしていたか」というご質問です。 

恩蔵 やってあげなければとか、守ってあげようという気持ちになってしまいがちですが、そうではなくて「この人は何に幸せを感じるんだろう」とか、その人の一番いいところを見ることに力を使うようにしていました。

安藤 イラッとしてきつい言葉を母に向けてしまった経験はいっぱいあって、その時は落ち込んで、受け止められなかった自分を責めました。その後、母の最晩年になり、「母は今ものすごく穏やかな時間を過ごしている」とわかった時からは、自分の心持ちも変わりました。母とできるだけ散歩したりとか、大好物の甘いものを買っていったりとか、本当にささやかな楽しみを重ねました。でもイライラするときはイライラするのですよ。その乗り越え方は千差万別で、イライラしちゃいけないと思うからイライラする。イライラしてもいいじゃないですか、と思いました。

臨床美術について語る安藤優子氏

町永 そろそろ時間が迫ってきました。新しい認知症観というのは、認知症と出会い直すことだと思います。このトークセッションでどんなことをお感じになったでしょうか。

恩蔵 認知症になっても「その人は変わらない」ということを実際に体験した人物がここに2人もいるので、それをまず発信していきたいと思いました。私たちが「認知症の人にはできない」と決めつけているからできなくなっていることがいっぱいあって、私たちが変わったらもっとできるようになるし、これから楽しめることもいっぱい出てくるだろうということが私の新しい認知症観だと思います。

安藤 母の若いときの写真を見ながら「母の最後は本当にあれで良かったのか」という思いと、「でも母が全力で生きてきた最後に私たちも全力で向き合ったよね」という思いもあって、いつも泣けてきます。
最後に、介護福祉士さんとかホームの職員の方とか、人の命が閉じていくのを見守る仕事の精神的なしんどさを考えると、「第三者と称している、こうした人たちも全力で手を差し伸べてくれた」ということを、申し上げたいと思います。

町永 今、私たちは超高齢社会のただ中にいます。不安とおびえの中でこの社会を見つめていますが、今日のお話にあったように、認知症というのはその人の人生のごく一部です。認知症というものをその人の人生に置き、尊厳と希望に満ちた人生の確認へと至るとき、豊かに成熟していく社会への道筋がくっきりと見えてくるはずです。今日はどうもありがとうございました。

ごあいさつ

公益社団法人 認知症の人と家族の会 代表理事
鎌田松代氏

鎌田松代氏

今日のお話をお聞きして、皆さんにお伝えしいたいメッセージのひとつは、認知症でも心は生きているのだということです。そして、共生社会ということについてのお話もありましたが、社会の一員として認知症の人も生きています。家族が全部の介護を引き受けることで、認知症の人が社会の一員として生きることを阻害してしまうのではないかという風にも思います。(医療・介護の)専門職の皆さんが認知症の人の人生だけではなく、家族の人生も大事に思いながら、それぞれの人生が自分らしく生きられるように、共に一緒に考えながら、サポートしてくださる。それぞれを認められる社会というのが共生社会ということなのかなと思います。

SOMPOグループが取り組んでいる『“Talk with” 話そう。認知症のこと。』は、
こちらの公式サイトで詳細を確認いただけます。

ジャーナリスト 安藤優子(あんどう・ゆうこ)氏
上智大学在学中より報道番組のキャスターやリポーターとして活躍。テレビ朝日系「ニュースステーション」のフィリピン報道で、ギャラクシー賞個人奨励賞を受賞。様々な報道番組でキャスターを務めた。上智大学大学院グローバル・スタディーズ研究科 グローバル社会専攻博士課程後期・満期退学。グローバル社会学博士号取得。椙山女学園大学外国語学部客員教授。
脳科学者 恩蔵絢子(おんぞう・あやこ)氏
専門は自意識と感情。一緒に暮らしてきた母親が認知症になったことをきっかけに、診断から2年半、生活の中でみられる症状を記録し脳科学者として分析した『脳科学者の母が、認知症になる』(河出書房新社)を2018年に出版。現在、東京大学大学院総合文化研究科特任研究員。共著に『なぜ、認知症の人は家に帰りたがるのか』(中央法規出版)、『認知症介護のリアル』(ビジネス社)がある。
福祉ジャーナリスト 町永俊雄(まちなが・としお)氏
1971年NHK入局。「おはようジャーナル」「ETV特集」「NHKスペシャル」などのキャスターとして、経済、教育、福祉などの情報番組を担当。2004年から「NHK福祉ネットワーク」キャスター。障がい、医療、うつ、認知症、介護、社会保障などの現代の福祉をテーマとしてきた。現在はフリーの福祉ジャーナリストとして、地域福祉、共生社会のあり方をめぐり執筆の他、全国でフォーラムや講演活動をしている。
公益社団法人「認知症の人と家族の会」代表理事 鎌田松代(かまだ・まつよ)氏
看護師として滋賀医科大医学部付属病院や特別養護老人ホームなどで勤務。2004年より両親、その後、義母が認知症の診断を受け介護を担う。2007年より公益社団法人「認知症の人と家族の会」理事、2023年6月に代表理事に就任。政府の認知症施策推進関係者会議の委員も務める。

11月11日介護の日、SOMPOグループでは、介護・認知症に関するさまざまなセミナーが開催されました。以下のサイトで読むことができます。
https://www.sompo-egaoclub.com/articles/topic/1691

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