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蛭子能収さんの異変、気づいたマネジャー 認知症と共に歩む「友達」

2020年に認知症を公表した漫画家の蛭子能収さん(右)とマネジャーの森永真志さん=2026年3月15日、東京都、ファザーズコーポレーション提供

 漫画家でタレントの蛭子能収さん(78)は、2020年に認知症を公表した。その後、認知機能が低下して日常生活への影響もある一方、周りの理解を得ながら雑誌の連載を続けている。蛭子さんは現実をどう受け止め、周りはどう接してきたのか。蛭子さんをそばで支えるマネジャーの森永真志さん(46)に聞いた。

 2人が出会ったのは、森永さんが蛭子さんの所属事務所に入社した2004年。入社したばかりの森永さんが担当したのが、蛭子さんのマネジャーだった。

 漫画やイラストの仕事を約15~20本抱え、テレビやドラマの出演など多忙な日々を送っていた蛭子さん。それでも、仕事の締め切りを破ったことは一度もない。「要領がよく、とにかくフットワークが軽かった」という。

 森永さんが蛭子さんの異変に気づいたのは19年ごろだ。

 蛭子さんの妻から「最近、家での物忘れがひどくて」と相談を受けた。当初は深刻に受け止めていなかったが、蛭子さんがロケ地で「ここ、どこだっけ?」と話したり、スケジュールを何度も忘れたりした。

 知り合いだったテレビ番組ディレクターにそんな話をしたところ、20年にテレビの医療番組で検査を受けることに。その結果、レビー小体型認知症とアルツハイマー型認知症の合併症だと診断された。

 蛭子さんは当初、ショックを隠しきれなかったという。

 それでも、蛭子さんには「いつまでも働いてお金を稼ぎたい」という思いが強かった。

 仕事を続けるためには、共演者や視聴者にも理解してもらう必要がある。そう考えて、番組内で公表することを決断。事務所も蛭子さんの思いを尊重した。

 それからは、仕事のマネジメント方法も変えた。夜や訪れたことのない場所だと蛭子さんが不安を感じるため、受ける仕事は時間と場所を制限した。目を離した隙にどこかに出ないよう、必ず誰かが付き添っている。

 蛭子さんの代名詞といえば、「ヘタウマ」とも言える独特なタッチのイラストだ。いまもイラストを描き続けているが、症状の進行とともに作風も少しずつ変わった。いまは、人の顔を描くときに顔の輪郭の外に目を書くこともある。

 公表後、仕事量は少しずつ減ったが、クイズ番組の出演や、21年には本の出版なども手がけた。

 23年には絵画の個展を開いた。長い付き合いのある雑誌の編集者たちが、蛭子さんにずっと絵を描いて欲しいと協力してくれたという。

 恥ずかしがり屋で、感謝を言葉にするタイプではない蛭子さんだが、個展の準備中には、森永さんが送迎する車内で「みんな優しくしてくれて、ありがとう」と涙をこぼすこともあった。

 蛭子さんが認知症になっても、森永さんとの関係は変わらない。

 蛭子さんからは「友達」と呼ばれ、デイサービスへ会いに行くと、共通の趣味の競艇の話で盛り上がる。食が細くなり、ぽっちゃりしていた体も痩せたが、温厚な人柄は変わらない。

 最近は体調の波が激しいといい、テレビ収録や取材などの人前に出る仕事からは遠ざかっているが、「サンデー毎日」で週に一度、連載を書く仕事を続けている。

 「1人で抱え込みすぎないようにしましょう」。森永さんは、蛭子さんの妻や事務所に、そう繰り返し伝えてきた。

 そう考えたのは、森永さん自身に認知症だった父親を介護した経験があるからだ。

 70歳を過ぎて認知症になった父。もともとは温厚だったのに、急に激高することもあり、初めはどう接していいか分からなかった。

 介護を乗り越えられたのは、看護師の妹やデイサービスの職員らと助け合ったからだ。介護の終わりが見えない不安も、できなくなることが増える父につい感じてしまったいらだちも、お互いに頼りあうことで和らいだ。75歳で亡くなった父。見送ったとき、みんなで支えられて良かったと思えた。

 蛭子さんと父。認知症の2人をそばで見てきた森永さんは言う。

 「自分だってあなただって、誰にでも認知症になる可能性がある。みんなの考え方をアップデートして、周りの人が一緒に当事者を支え合っていく時代になってほしい」

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